シュリーH.W.L.プンジャ
アインシュタイン
ガンジーの自伝から
マザーテレサの生涯
サティア サイババ
ニサルガダッタ・マハラジ
ヨガナンダ
ヒマラヤ聖者ババジ
テレーゼ・ノイマン
沖 正弘
シュリーH.W.L.プンジャ
1913年10月13日インドのパンジャブ地方(現パキスタン)の小さな村に生まれた。
6歳のとき、三日間真我の直接体験に没入。
1944年31歳のときラマナ・マハルシの臨在のもとで覚醒を得る。
1966年に引退するまでさまざまな仕事に就いて家族を養い一家の長として務めを果たした。
その後ガンジス河のほとりの聖地に暮らしながら
インド各地、世界各国の帰依者に招かれサットサンを行う。
覚醒の炎 プンジャジの教え
「考えているのは誰か?」と尋ねることは思考過程を止め、あなたは本来の自己、自然な状態、空なる純粋な現に戻る。
これがあなたの本性なのだ。
あなたはすでに”それ”なのだ。修練をして真我になるのではない。修練をするのは自我でしかない。
努力を棄てなさい。
そうすれば世界の現れも真理の探究もすべては自分の心の投影でしかなく、
束縛も解脱も、解脱を求める人も存在しないという究極の真理にあなたは目覚めるだろう。」
「一つの想念も起こさずにただ静かにしていなさい」
その強烈な臨在は世界中の数知れない真理の探究者たちを真我に目覚めさせた。
忍耐と寛容の人、アインシュタイン
彼は偉大な科学者であるとともに英知の人でした。こういう組み合わせは希にしか見ないものです。
彼には非常に愚かな妻がいました。彼女には教養がなかっただけでなく、立ち居振る舞いが粗野でした。
アインシュタインは常に実験と黙想にひたっていました。仕事に夢中でしたので妻から何度せっつかれても、
食事や休憩の時間に間に合うことがありませんでした。妻は夫の振るまいに腹を立てうんざりして
癇癪を起こすことが何度もありました。ある日のこと彼女は非常に空腹でした。
食卓に料理を並べてから、夫に何度も声をかけて食事をしにくるように呼びました。
しかしアインシュタインは外側の世界のことはすっかり忘れて自分の考えに没頭していました。
彼女の言葉に何の注意も払わない彼に腹を立て、水差しに水を入れて夫のところに走っていきました。
そして、罵りの言葉とともに夫の頭にその水を全部かけました。
アインシュタインはずぶ濡れになりましたが平然としていました。彼は妻に微笑して冷静にこう言ったのでした。
「毎日、稲妻と雷鳴だったけど、きょうは頭がどしゃ降りになったね!」
このように普通なら腹の立つ状況でのアインシュタインの堪忍と落ち着きとユーモアを想像してみましょう。
他の夫だったらカッとなって妻に仕返しをしていたことでしょう。アインシュタインはそういうことを全く考えず、
言い返しすらしなかったのです。自分の感覚をこのように見事にコントロールしていたのでした!
ガンジー自伝「真理の実験」より
ガンジーの名前を知らない人はいないだろう。
その輝かしい功績も有名だがガンジーだって始めから完璧な人間だったわけではありません。
自伝には自分の悪い、直さなければならないことについて細かく自分をさらけ出している。
その心情やどんな悪いことをしたかなど、こんな正直に書けるものかと感心してしまう内容なのです。
私の知らなかったガンジーが私を励ましているように思えるのは自伝を読んで身近な人と感じたからでしょう。
分厚いその自伝の中から指針とするべく内容を抜粋してみました。
沈黙が望ましい
「人はとかく意識的にあるいは無意識のうちに話を誇張したり、言うべきことをかくしたり、
一つのことを別な形で言ってみたりしがちである。 そういった困難から免れるためにも寡黙なほうが良い。
寡黙な人は決して考えなしにものは言わない。
一語一語確かめながら口にする。しばしば人は話のなかで自分を見失いがちである。」
祈りの基本
「祈りの基本は発音ではなく心にある。常に心に純粋性を保ち、情感の絃を正しく調整しておくならば
心の絃を奏でる調べは天界までも鳴り響く。そうなればもう舌は不要となり、黙っているだけで神に通ずる調べとなる。
罪を浄めるために熱誠こめた祈りはラーム神の矢のように決して的をはずさない”救いの良薬”である。
もっともこの最高のお恵みを天から授かるには完璧な謙虚さが不可欠である。」
もめごとの大半は・・・
「世界中の絶えることのないもめごとの大半は約束事の意味の解釈の食い違いによって生ずる。
遺言などの文言がどれほど明瞭な言葉で書かれていても言語学者が芥子粒ほどの解釈の違いを山ほどにも大きくしてしまう。
これは文明とか非文明とかの問題ではない。利己心がすべての人を盲目にしてしまうからだ。
王様から貧民に至るまで約束事に自分勝手な意味づけをして自分と世界を、そして神をもあざむく。
身勝手な人間は言葉や文章を自分に都合よく解釈して平気である。論理学ではこれを二律背反と呼ぶ。
黄金の判断というべきものは、
一つは、反対者の解釈を正当と認め、、そして自分の解釈は間違いか少なくとも半端であると省みること。
二つ目は、両方の解釈が成り立つ場合には弱い立場の側の解釈を正当とみなすことである。
この二つの黄金律の破られることによって、しばしば紛争が起こり、そして罪が犯される。
罪の根源は非真理なのである。
真理の道を歩むものにはこの黄金律が実に素直な気持ちで受け入れられる。」
他人の徳性は安易に判断できない
「こうして私は一日のうちに相反する二つの行動をとる羽目になった。
生命の危険が想像に過ぎないと思われた時にはロートン氏のすすめに従って公然と外に出たが、
現実に危難が迫ってくると今度は別の友人の助言に従ってこっそりと家を逃げ出そうとしているのである。
私のとったこの行為がわが身可愛さのためなのか、友人の全財産の損害、家族の生命の危険を恐れてのことなのか。
それとも何か別の第三の理由のためであったのか。
誰が正しく答えることができようか?いったん勇気を示して船を降りたが危険に直面するとたちまち
こそこそと脱出したことが果たして正しい行為であったかどうか、言い切れる者がいるだろうか。
過去の出来事をとやかく論議してみても無駄かもしれないが事実を正しく見極めてその中に学ぶべき点があれば
取り入れる必要がある。ある事態に直面したとき、人がどういう行為をとるかを的確に言いあてるのはなかなか難しい。
とかくわれわれは外面に現れた行動を通してのみ他人の徳性を判断しがちだが、
その判断はあくまでも憶測の域を出ないことを知らなければならない。」
人格と行為はおのずから相異なる
「よい行為に対しては賞賛が、悪い行為に対しては非難が加えられて然るべきであるが、
行為を行う人間そのものには常に尊敬と思いやりを持って接することを忘れてはならない。
だが、このことは理解することは易しくても現実に適応させるには実に難しい。
その結果、世間には害毒が大きく広がっていく。真理探究の根っこにはこのような非暴力の精神が欠かせない。
非暴力を手中に収めないかぎり、真理の体得は不可能であると痛感している。
制度や方針に対する闘争には逃走者に光彩を添えることはあっても
個人を対象とする闘争は自分自身に向かって拳を振り上げるのにも似た愚行である。
なぜなら、人間は一人の例外もなく神の同じ絵筆によって描き上げられた兄弟だからである。
真理以外には何一つとして安定したもののない社会で
「妻子との別離、やっと落ち着いた家庭の崩壊、安定した生活から不安定な生活への逆戻り。
それからの事柄がしばらくの間心を悩ませたが、どうやら私には不安定な生活が板についていたようである。
神、すなわち真理以外には何ひとつとして安定したもののないこの社会で、
安定を求めるのは罪悪のような気がしてならなかった。
私たちの身のまわりに絶え間なく起きる事柄はどれもこれも不安定で束の間のものにすぎない。
恒常不変の偉大な本質は移ろってやまない諸事象のその奥に伏在するのである。
その真実を見極め、それに対する信仰が持続できるとき、人生ははじめて有意義なものとなる。
その唯一なるものの探求こそが、実に人間の本来の使命と言うべきものである。」
食による器官のコントロール
「新鮮な果物と乾燥した野生の果物さえあれば人は十分に生きられる、と思っている。
落花生などの豆類、、ブドウなどの果物からだけでも人間の肉体と頭脳に必要な栄養は不足なく摂取できる。
このような食物で過ごせる人は、不犯など器官の制御が非常に容易になる。
「食べたものに似合ったおくび」という諺がある。食べた物にふさわしく人は作られる、という意味であるが。
魂は食べもしない。飲みもしない。魂は飲食とはかかわりがない。
魂に利害を与えるのは、腹に入れる物ではなく内から出る言葉である。
このような説があることも知らないわけではないし、それには真理も含まれていると思う。
しかし私が願うのは論理をあげつらうことではなく、神を恐れて生き、神と直接接触することである。
熱心な信仰者や求道者にとって、食事の選択、その受容と禁制の重要性は
思想の選択、その受容と禁制に劣るものではないことを信念をもって強調する。」
ガンジーまとめの言葉
「大宇宙に遍満する真理の神に相まみえるには、
生きとし生けるものに対する一視同仁の慈悲心を持つことが絶対の条件である。
そして真理の神を渇仰する人は人間生活のどの分野をもなおざりにして生きてはならない。
真理への信仰が政治の道に私を引っ張ってきたというのはそういう意味からである。
「宗教は政治となんのかかわりもない」などと主張する人がいるが
私は「その人は宗教を知らないのだ」とためらうことなく言う。もちろん謙遜もしない。
魂が浄化されなければ一切生類への慈悲心も生まれてこない。
不純な魂は神を見るのに力及ばないのである。
人間生活のあらゆる分野において、浄化が必要なのはこのためである。
このような浄化は決して不可能ではない。なぜなら、個体と全体のあいだには、
個体の浄化は全体の浄化を意味するほどの密接不可分の関係があるからである。
また、努力、精進する能力は万人に生まれながらにして平等に授けられているからである。
そうは言っても浄化への道はこの上なく険しいことを私は絶えず思い知らされている。
浄化とは心・言葉・体から完全に悪がなくなり、怒りや妄念から魂が解放されることをいう。
このような無悪の状態に到達するために私はたゆみのない努力を続けているがまだまだ道は遠い。
道が遠いことを自覚しているから、人々からいくら称賛されても私は自分を見失うことがない。
むしろ、こうした称賛は概して私に激しい苦痛を与えるばかりである。
心の悪に打ち勝つことは武力闘争で勝利をおさめる以上に困難に思われる。
インドに帰ってきてからも自分の内面にひそむ悪を見つめては激しい羞恥に責められたが負けはしなかった。
真理の実験を続けながら、私は法悦に浸り、そして今もその悦びを味わいつづけている。
しかし、これからは一段と険しい道を乗り越えなければならないことも確かである。
そのためには無心になりきることである。
わが身をもっと低くおかないかぎり、解脱は得られない。
非暴力の極致は謙遜である。
謙遜の伴わない解脱は決してありえないことは体験によって明らかである。
マザー・テレサの生涯
貧しいことは美しいこと
シスターたちの唱える「聖フランシスコの祈り」がカルカッタの街に朝を告げる。
蒸し暑い質素な聖堂。
ミサにあずかる人々の後ろでいつもひっそりと膝まずいていたマザーテレサはもういません。
彼女の少し丸みを帯びたその背中を、祈りの日々の刻まれた皺だらけの手を、
人々を惹きつけて止まなかった笑顔を、私達は二度と目にすることはできないのです。
ただそこには、ほぼ半世紀という長い年月の間、変わらず在り続けた何かが、
厳しく優しい空気の中に今も確かに在るだけなのです。
マザーはいつも言ってました。貧しいことは美しいことだと。
貧しい人の一人一人はイエスキリストその人なのだと。
いつのときも彼女は人々の中に神を見、心から献身していました。
ある日のこと、
「八人の子持ちのヒンドゥー教徒の家族がこのところ何も食べてないと聞き、私は一食に十分なお米を持ってその家に行きました。
そこには目だけ飛び出している子供たちの飢えた顔があり、その顔がすべてを物語っていました。
母親は私からお米を受け取ると、それを半分に分け、家から出ていきました。
しばらくして戻って来たので「どこへ行っていたのですか」と訪ねると、
母親はニッコリ笑って「彼らもお腹を空かせているのです」と答えたのです。
「彼ら」というのは隣に住んでいるイスラム教徒の家族のことで
そこにも同じく八人の子供がおり、やはり食べるものがなかったのでした。
この母親はその事を知っていてわずかの米の一部を他人と分け合う愛と勇気を発揮したのです。
自分の家族が置かれている状況にもかかわらず、わずかの米を分け合うことの喜びを感じていたのです。
富の中から分かち合うのではなく、ないものを分かち合う、それが彼らの素晴らしさです」
そして彼女は言いました。何もないところにこそ、真の自由があるのだと。
「ある女性が私の手を取って、たった一言「ありがとう」と言って死にました。
私があの女性だったら、きっと「苦しい、助けて」と言っていたでしょう。
彼女は私が与えたものよりも、もっと大きなものを私に与えてくれました。
貧しい人は我慢強く、優しいのです。それが彼らの偉さです」
その信念こそが世界中の人々の心を動かした彼女の”偉業”のすべてを支え続けなした。
「何をするかと決める計画などはありませんでした。
苦しんでいる人々が私達を必要としている、と感じた時それに対処したに過ぎません。
神様はいつも何をするべきか教えてくださいました。」
「もしこれが私の仕事だというのなら、私が死んだら終わってしまうでしょう。
でも、これは神様の仕事。私が死んでも終わることはありません。」
その言葉通り、40万人を越える路上生活者と36万人(その当時)を越えるハンセン病患者を抱え、
世界最悪の都市と呼ばれるカルカッタの街中へ、今日もそして明日もシスターたちは出掛けていきます。
このベンガル地方のうだるような暑さの中で
彼女たちの来訪を待ちわびる愛おしい人々と、限りない愛を分かち合うために。

誕生
旧ユーゴスラビアの古都スコピエ。
1910年8月27日、様々な人種と様々な宗教が同居するこの街に一人の女の子が生まれました。
彼女の名前はアグネス・ゴンジャ・ボワジュ。
教養ある父と信仰深い母、優しい姉と兄、何不自由のない裕福な家庭でアグネスは育ちました。
イスラム教のモスクやビザンチン風のギリシャ正教会、そしてカトリックの教会、
その間を母は彼女を連れて様々な奉仕活動へと出掛けました。
「良いことは淡々としなさい、と母はよく言ってました。貧しい人を助けるには当然だと。
母はまず神に接するきっかけを与えてくれました。そして何よりも、神を愛することを教えてくれたのです。」
ある日、神父が聞かせてくれた話を通して、12歳のアグネスは初めてインドという国を意識し、
貧しい人々のために働く使命があることを知りました。自分も宣教師になって貧しい人の血からになりたい。
しかし愛に溢れ、互いに強い絆で結ばれた家族と過ごす幸せは、その後しばらく彼女の決心を鈍らせていました。
決心
18歳の時、アイルランドに本部をもつ、ロレット修道会が修道女をインドに派遣して
宣教にあたっていることを聞き、アグネスは自らの一生を神に捧げるために家を離れる決心をしました。
洗礼名はテレサ。
貧しい人々に愛された「リジューの聖テレジア」に因んで付けられました。
去りがたいほどに愛しいスコピエでの日々、しかし迷いはありませんでした。
「家族と離れるのは辛いことでした。でも、その時から信仰が揺らいだことはありません。
すべて神の御心だったのです。選んだのは、神様でした。」
インドへ派遣されたシスターテレサは20年間聖マリア高校での教育に携わりました。
地理を担当し、ユーモアを交えた教え方はとてもわかりやすく生徒からの信頼は絶大でした
彼女の回りにはいつも生徒の笑顔がありました。神様は愛しいものを手放した者に、またさらなる愛しいものをお与えになる。
テレサは自分を「世界一幸せな修道女だ」と思っていました。
ある日、食料を調達するために同僚のシスターと一緒にテレサは学校の外へ出ました。
当時のベンガル地方は500万人の餓死者を出した大飢饉の後遺症が癒えないまま、
ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が衝突を繰り返していました。
そして、非暴力主義を貫き、ヒンドゥーとイスラムの共存を心から願った、
インド独立の父マハトマガーンディが暗殺され、独立一周年でのこの悲報は世界中に衝撃を与えていました。
度重なる争いの中で傷ついた人々は、住み慣れた土地を追われ、難民となってカルカッタへと流れ込みました。
人々の苦しい生活を目の当たりにしたテレサの心は修道院の頑丈な壁の中でひっそりと営まれる
平穏な日々への疑惑と不満で乱れていました。
「インドには貧しい人が無数にいます。
路上に行き倒れ、貧困と飢えと病に冒された、孤独な人々・・。
この違いは何?私たちはみな同じ神の子なのに。
かつてガーンディはキリスト教宣教師に言ったではありませんか。
”もし救いを唱えるのなら、自らも貧しさに中に身をおけ”と・・」
使命
1946年、心乱れたまま、テレサは年に一度の修道院での黙想のためダージリンへ向かう汽車の中にいました。
彼女は考えていました。路上にうずくまる老婆、ゴミ箱に捨てられた赤ん坊、手足のない子供・・。
そして彼らの呼ぶ声。シスター、お恵みを・・。シスター、何か食べ物を・・・。
その時テレサは紙の声を聞いたのです。
「病める人、死にゆく人を助けよ。飢えた人、裸の人、家のない人に、神の愛を行動にして示せよ」と導く神の声を。
そうです、自分の使命は貧しい人の中に飛び込み、その中で最も苦しんでいる人々にすべてを捧げて奉仕することです。
テレサは悟りました。
小さな頃から、どうしたら自分は神のものになれるだろうかと、祈りの中で問い続けてきた彼女はとうとうその答えを見出したのです。
1948年、ローマ法王ピオ十二世の特別のはからいにより、一年間という期限付きで修道院外で働く許可がおりました。
貧しい人々の中にこそイエスはおられる。テレサは彼らの苦しみを理解したいと思いました。
そして自分も貧しい人と同じ環境に身を置こうと、安い木綿地で作ったサリーを身にまとい、
わずか5ルピーをポケットに入れカルカッタの街中へ足を踏み入れました。
肩に留めた小さな十字架が揺れます。38歳のときのことです。
試練
スラム街に入るとテレサはまずパトナにあるアメリカン医療宣教修道会で医療看護の集中訓練を受け、
病に苦しむ人々や子供たちの世話をすることから一人だけの宣教を始めました。
教育こそ貧困と無知から脱出する唯一の道と信じ、青空学校も始め、子供たちにベンガル語や一桁の数字、
簡単な英語を教えました。カーストを越えて理解し合うために言葉は不可欠でした。
衛生上の教育も忘れず、たくさんの石鹸が手に入った時は子供たちに体を洗うことを学ばせました。
しかし、テレサが生まれて初めて経験する真の貧しさ、スラムでの生活は想像以上に厳しくロレット修道会での日々が
疲れ切った彼女の心を誘惑することもありました。
それでもスラムを離れなかったのは、それを神が望まれているのだという、
深い祈りの中で得た確信があったからです。神は必ず私を見守り、導いてくださる。
「私の白いサリーは貧しい人の中で私も貧しい人の一人だちいう印。
私の身なりも生活も、病に倒れた人や骨ばかりの子供とひとつになるための糧。
不親切で冷淡でありながら奇蹟を行うよりは、むしろ親切と慈しみのうちに間違うほうを選びたい」
テレサは毎日を貧しい人々のために捧げ続けました。
ひたむきなその姿は次第に人々の心を動かし、協力者も現れ始めました。
「シスターテレサ、お願いです。私をあなたの仲間にお加えください」
テレサにとってこれほど嬉しい申し出はありませんでした。それはまさに神からの贈り物でした。
1950年、テレサは12人の教え子と共に”神の愛の宣教者会”を設立しました。
「私たちは神の愛を伝えるメッセンジャー。それ以外の何者でもない」
シスターたちは生涯、純潔と清貧と従順、そして最も貧しい人々に無償で献身することを誓願しました。
そしてその日から「創立者」シスターテレサは”マザーテレサ”と呼ばれるようになったのです。
死を待つ人の家
ある日、マザーテレサは路上に行き倒れた老婆と出会いました。
彼女は極度の栄養失調でやせ衰え、そして顔の半分をネズミとアリに食いつかれていました。
まだ、生きている!神に望まれて生まれてきた大切な命をこのまま死なせたくない。
マザーは駆け寄り、彼女を抱き上げて病院へと急ぎました。
しかしたどり着いた病院で「死ぬと決まっている人の治療をする余裕はないのです。」と治療も入院も診療室に
入ることさえも拒否されました。マザーはそれでも諦めず、老婆を抱きかかえながら玄関の前に座り込み
ただじっと待ち続けました。やがて根負けした医師は老婆の診療を承諾してくれました。
「最初の一人を助けずに、なぜみんなを助けられるのですか?私のしていることは大海の一滴かもしれません。
でもその一滴がなければ大海は一滴不足することになるでしょう。
私が出きることは二つに一つです。
彼らを助けて、彼らに何かをしてあげるか、それとも往来に放っておくか・・・」
「死にかけている人のために場所を作って、私自身が世話をしようと決意したのはまさにこの時でした。
助からない人も、愛されていると感じながら、人間らしく逝かせてやりたいのです。」
1952年、ヒンドゥー教のカーリー寺院の休憩所跡を使って、すべての人々が安らかに人間らしく最後の時を
迎えられるようにと”死を待つ人の家”が開かれました。
別名ニルマルフリダヤ(清らかな心の家)と呼ばれるこの施設では、運び込まれた人が亡くなると台帳にその人の
名前がこの世に生きた唯一の記録として、最後の最後に大切にされ愛された証として記されていくのです。
そして、信仰そのものへの尊敬から埋葬はそれぞれの宗教に従って行われます。
「この世に無駄な命は一つもない。道端で倒れた人に明日はないかも知れない。
だからこそ今、手を差し伸べるのです。」
「恵まれない人々にとって必要なのは多くの場合、金や物ではない。
世の中で誰かに必要とされているという意識なのです。
見捨てられ、死を待つだけの人々に対し、自分のことを気にかけてくれた人間もいたと実感させることこそが
愛を教えることなのです。」
「私は自分の心の中に死にかけてゆく人々の最後の眼差しをいつも留めています。
そして私はこの世で役立たずのように見えた人々がそのもっとも大切な瞬間、死を迎える時に愛されたと
感じながらこの世を去ることが出きるためなら、何でもしたいと思っているのです。」
美しい命
インド各地から流れ込む失業者と難民は増え続け、飢えと貧困が人々の笑顔と生きる力を奪っていきます。
そして、貧しさはいつも最も弱い者へ犠牲を強いるのです。
マザーは1955年、身寄りのない子供を引き取り、育てるための施設「聖なる子供の家」を作りました。
親に捨てられた子や病気や重度の障害をもって生まれた子、受刑者や未婚の母から生まれた子などがたくさん
運び込まれてきました。
子供が多すぎるということがインド国内の大きな問題でもあるのに、という批判も少なからずありました。
しかしそれはマザーにとって、空には星が多すぎますね、と言われることと同じでした。
「小さな子供達は神様の命、多すぎるということは絶対にありません」。
「行く所がない赤ん坊が次から次へと来ます。中にはここに来て一時間もしないうちに死んでしまう子もいます。
でも一時間でもいい。ここに来てほしいのです。
誰にも愛されないまま子供が死んでいくことは、私にはとても許すことができないのです。」
マザーの子供達に対する愛情の細やかさは、この家を見れば一目で判ります。
他の施設よりも物が豊富に揃えられているのです。
そして、この大きな愛に包まれて子供たちは健やかに成長していきます。
水たまりに泥まみれで倒れていたところをマザーに助けられたある赤ん坊は、今では二児の母となり、
マザーの仕事を手伝っています。
「学校でアクセサリーが流行ったことがあったの。マザーはいつのまにか、私のためにアクセサリーを用意してくれていた。
友達から仲間外れにされないように気を配ってくれたのね。
マザーは本当に我が子のように育ててくれた。就職の時も、願書に両親の名前を書く欄があって
私には両親がいないんだなって思ったらすごく辛かった。
すると、マザーは黙ってその欄に「マザーテレサ」と書いてくれたの。忘れられないことです」
マザーの巡回治療車に助けられた少年が今では立派な青年医師になり、やはりマザーの活動を支えています。
養子縁組が整い、裕福な家庭に引き取られていった子供もたくさんいます。
子供たちは、ヒンドゥーの教えにのっとり宝物のように大切に育てられています。
今までに九千人以上の子供達がここから巣立っていきました。
「子供は神が遣わされた美しい命、家族への最高の贈り物です。私たちは病院に頼んでいます。
中絶をする患者がいたら、「子供は私たちが育てるから産ませてください」と。里親探しで中絶と闘っています。
私たちの精一杯の愛情も両親にはかないません。とても無理なことです。
愛することを知らずに、神や愛を語る人がいますが、愛は行動を伴わなければなりません。」
すべての中に
伝染病と人々に疎まれ、社会から隔絶されていたハンセン氏病患者にもマザーは救いの手を差し伸べました。
「私はすべての人の中に神を見つけることができます。
ハンセン病患者のケガを洗うとき、私は神を看病と感じます。美しい経験ではないですか」。
そして、1958年にはチタガールの国鉄用地を無料で借り受け、ハンセン病患者の治療センターを開設しました。
さらに1969年、西ベンガル州知事が提供してくれた土地にサンチナガール(平和の村)を作りました。
ここで患者たちはココナッツの殻からたわしやマットを作ったり、シスターたちのサリーや施設で使用するシーツを織ったりして
働きながら家族と共に過ごし、そして病気の治療をすることができるのです。
この小さな社会の中で自信と誇りを取り戻した人々はお互いを助け合いながら生活をしています。
人から大切にされ、必要とされていることを知ることが、どんなに彼らを勇気づけ、力づけたことでしょう。
その思いが、彼らに再び人間として生きることを選びとらせたのです。
マザーは言います。
「私たちのセンターで一番大切なことは、一人一人の魂と接する機会が与えられていることなのです。」
そして、この設立資金を、ローマ法王パウロ六世より贈られた高級車を賞品にした宝くじの発行という名案によって
マザーが捻出したことはあまりにも有名な話しです。
さらに、1975年には学校、病院、作業所を併せ持つ複合センター”プレムダン(愛の贈り物)”も開設しました。
成人の精神病棟やスラムスクール、脳性小児麻痺の子供達の施設の他、
ロバートケネディの寄付で女性の精神病棟も完成しました。
ノーベル平和賞
マザーの仕事は止まることをしりません。
その活動範囲はすでに世界中の多くの国に広がっています。
1979年、異例の委員会満場一致により、ノーベル平和賞を受賞しました。
受賞の席でマザーは
「私は皆さんが考えておられるようなノーベル平和賞の受賞者には値しません。
でも、社会に望まれず、愛されず、顧みられないと感じているすべての人々、
社会の負担となって皆から避けられている人々、お腹を空かせた人々、障害者、盲人、ホームレスなど、
こうした人々に代わってこの賞を受けることをありがたく思っています。
世界中の人々の心に貧しい人々への関心を呼び覚ます機会を与えられたことを神に感謝します。」
と述べると、恒例の祝賀パーティを断り、その費用と賞金のすべてを貧しい人々のためにと自らは何も望みませんでした。
実際、マザーにとってノーベル平和賞など、どうでもよかったのです。
彼女はただ神から与えられた仕事に対し清くあろうと、それだけを考えて生きてきただけなのですから。
そして、自分の過ごしてきた日々を振り返り、
「どんな仕事が待っているのかを知っていたら、きっと尻込みしたでしょうね」と笑いました。
知ることから愛は始まる
ノーベル賞受賞を受けて、日本でもマザー・テレサの活動がマスコミに取り上げられるようになり、
1981年から三度に渡って来日が実現しました。
マザーは「私は豊かな国と言われる日本のなかで、最も救いの手を待っている人々のところに行きたい」と希望し、
東京の山谷地区や大阪の愛隣地区(共に多数のホームレスの方がいる地域)をお忍びで訪ねました。
「日本に来てその繁栄ぶりに驚きました。日本は物質的に本当に豊かな国です。
しかし、町を歩いていて気がついたのは日本の多くの人は弱い人、貧しい人に無関心なことです。
物質的に貧しい人は他の貧しい人を助けます。 精神的には大変豊かな人たちです。
物質的に豊かな多くの人は他の人に無関心です。精神的に貧しい人たちです。
愛の反対は憎しみと思うかもしれませんが、実は無関心なのです。憎む対象にすらならない無関心なのです。」
「私がショックだったのは酔っぱらった中年の男の人が路上に倒れているのに、誰も手を差し伸べる人がいなかったことです。
彼も私達も兄弟です。本人はきっと孤独でしょう。誰からも無視されてのやけ酒かもしれません。
豊かそうに見えるこの日本では心の飢えはないでしょうか。
誰からも必要とされず、誰からも愛されていないという心の貧しさ。物質的な貧しさと比べ、心の貧しさは深刻です。
心の貧しさこそ一切れのパンの飢えよりも、もっともっと貧しいことだと思います。
日本の皆さん、豊かさの中で貧しさを忘れていませんか?」
「何もしなくていいのです。そこに苦しむ人がいることを知ってください。知ることから愛は、始まります」
その一ヶ月後には4人のシスターを来日させ、妊娠中絶や乳児遺棄で失われる幼い命を救うため、東京都江東区に
「愛の家」を開設しました。
「命は神からの賜り物です。胎児の中にすでに命が宿っています。人間の手で生命を奪うことは許されません。
出生以前に生命を断たれる子供たちの叫びは神の耳に届いています。」
「富める国で中絶を合法化するところがあれば、その国は間違いなく世界中でもっとも貧困な国です。」
人はすべて神の子
苦しんでいる人々がいればマザーはどこへも出掛けていきます。
1982年、イスラエルのレバノン侵攻によって首都ベイルートが包囲され、孤立状態にあると知ると、
マザーはとくに戦火の激しい西ベイルートに入り、争いの中で傷ついた人々を助けなければと思い立ちました。
「今は戦火が激しすぎます。下火になるのを待つべきです。」との言葉に
「何かせずにはいられません。やらなければ」
「怪我をしている人を連れてくるだけです。動けない人を一人ずつ安全な場所に」
「戦争に秩序はありません。二週間前に神父も殺されています。命を捨てにいくようなものです」
すべては神のためです。何年も前に私は最初の一人を助けました。これまでに世話をした数は四万二千人になります。
だからカルカッタの時のように今度も一人ずつ始めたいのです。」
そして、断固とした口調でこう言いました。
「私は聖母マリアに祈りました。明日までに停戦するようにと。大丈夫、明日はきっと停戦になります」
「私はただ出来ることをするだけ」
マザーの祈りは天に通じました。水も食料も不足した病院から、
イスラム教徒の子供という理由で見放されていた60人の脳性マヒの子供達を救いだしたのです。
「人は」皆、愛し、愛されるために生まれてきます。宗教や人種、主義主張は関係ありません。
人はすべて神の子です。大人も子供もです。神の姿に似せて造られたもの、それが人間です」
「許すためには愛が必要です。そして許しを請うためにもっと謙虚な心が必要なのです。愛と喜びを共にしましょう」
私があなたを愛したように
弱り果てた心臓にペースメーカーを埋め込む手術を受けてから、8年後の1997年3月、87歳になったマザーは
高齢と健康上の理由から、神の愛の宣教師会の総長をシスターニルマラに譲りました。
それでも心はいつも愛しい人々のために向かっていたに違いありません。
動けないほどに衰弱した体を横たえたマザーを見舞った「日本の息子」沖守弘氏に小さな声で呟きました。
「オキ、貴方のために祈りましょう」
マザーは立ったまま神に召されたいのだと最後まで、与え続けることを望んでいました。
最後の最後まで、貧しい人々のためにと祈り続けた彼女でした。
修道院でシスターたちが捧げる祈りも「聖なる子供の家」で100人の子供達が合唱する賛美歌も天には届かず、
全カルカッタ市民が回復を祈り続ける中、病状は悪化。
1997年、9月5日、「もう、息ができないわ」という言葉を残してマザーは肉体の束縛から開放されました。
ずっと神のものになりたいと願っていた一人の修道女はそのとき、まさに神のものとなったのです。
9月13日、葬儀はインド国葬として行われました。
ローマ法王の特使、ソダーノバチカン枢機卿が遺体に聖水を振りかけて、神のもとに召されたことを祝福。
ヒンドゥー教、イスラム教、シーク教、仏教のそれぞれの代表が弔辞を述べ、世界中の多くの人と共に、宗教を越え、
人種を越えて人々を愛し続けたマザーテレサの魂を見送りました。
神の愛の宣教師会本部に埋葬されたマザーの墓地にはこう刻まれています。
「LOVE ONE ANOTHER , AS I HAVE LOVED YOU
(私があなたを愛したように、互いに愛し合いなさい)」
「貧しい人がいます。飢えた人がいます。でも、ただお金ををあげるだけで満足しないように。
お金なら手に入れられます。
でも愛してくれるあなたの心が、燃えるように温かいあなたの愛が必要なのです。
あなたが行くところ、どこにでも愛が広まっていくようにあなたに会うと勇気が湧いてくるように。」
「まず家庭の中で不幸な人を救いなさい。両親が愛し合い、母親が家庭の中心となりなさい。
平和と潤いの家庭が築けたら隣人を愛しなさい。
自分が、そして自分の家庭が愛に満たされなければ隣人を愛することは出来ません。愛は家庭から始まります」
サティア サイババ
サティアサイ オーガニゼーションという世界規模の奉仕団体の紹介
私が信頼する理由があります。
それは三つの「してはいけないこと」にありました。
★人を無理に誘ったりしてはいけない。
★宣伝をしてはいけない。
★1円たりともお金を集めてはいけない。
LOVE ALL SERVE ALL すべてを愛し すべてに奉仕する
サティアサイババは、1926年に南インドのプッタパルティという小さな村で生まれました。
1940年、14歳のときから、人類の霊的復興をもたらすという自分の使命を明らかにし、
個人、社会、国家、世界的レベルで教育、医療、社会福祉の向上に貢献してきました。
また、サティアサイオーガニゼーションはサティアサイババによって1965年に設立された国際的な奉仕団体で、
本部はインドのアーンドラブラデーシュ州プラシャーンティニラヤムにあります。
現在、世界187カ国以上の国と地域において2500以上のセンターを中心に奉仕活動が行われています。
また、メンバーは真理・正義・平安・愛・非暴力という五大価値を実践しながら人格を磨くことによって
霊性(精神性、道徳心)を向上させることを目的としています。国の法律を守り、あらゆる宗教、文化、伝統に敬意を払い、
社会や家庭の中で自分自身の義務を誠実に果たしながら、奉仕活動に取り組んでいます。
また、サティアサイオーガニゼーションは特定の政治、宗教に属さず、布教活動、政治活動、
商業活動を一切行いません。組織の運営はすべてボランティアで行われ会費は無料です。
節制をむねとし、運営資金は自発的な寄付によってまかなわれています。
ホームページ http://www.sathyasai.or.jp/
エデュケア(教育奉仕)
子供達が卓越した人間性を育み、優れた人格と適切な道徳観、倫理観を身につけ、将来社会に貢献できる
市民となれるように価値教育の普及に取り組んでいます。現在、100カ国以上の公立・私立の教育機関にて、
サティアサイババの推奨する道徳的価値に基づいた教育「サティアサイ人格形成教育」が採用されています。
特にインド、タイ、オーストラリアなど38カ国にある47の幼・小・中・高等教育および総合大学では、
各国政府や文部省から優良校として認定されており、モデル校として教師や教育者が絶えず見学に訪れるなどの
高い評価を受けています。学費はすべて無料です。
メディケア(医療奉仕)
献血、救急処置など無料の医療キャンプを実施。インドでは全土で最も近代的な設備が整えられた病院である
シュリサティアサイ高度専門病院など三つの総合病院が開設されており、そこではカーストや肌の色、宗教、宗派、
国籍、経済状態に関わらずすべての患者が最先端の治療を無料で受けることができます。
ソシオケア(社会奉仕)
ホームレスの方への食料や衣料の提供などは定期的に行われ、災害時には各国のセンターが連携して
必要とされているものを無償で提供します。また、アナンタプール地区に日本列島の長さに匹敵するほどのパイプラインと
貯水槽などの給水設備を設置し、350万人以上の人々が清潔な飲料水を飲めるようになった「恵みの水プロジェクト」があります。
開通式にはインドの大統領と首相が出席し、現在このプロジェクトはインド全域に拡大しつつあります。
ニサルガダッタ・マハラジ I am that!
ようやく 「私は在る」 ニサルガ・ダッタ・マハラジとの対話 が、翻訳された。
現代の聖者と絶賛され、読み継がれてきた覚醒の巨人との対話集。
ニサルガダッタは1897年インドのマハーシュトラ州カンダルガオンという村で生まれ育った。
正式な教育を受けることもなく、純真素朴な青少年期を送った彼はその後ボンベイに移り住み、
小さな雑貨屋を営みながらごく平凡に暮らしていた。
初めてグルに会ったとき、師は彼に言った。
「あなたはこれが自分である、と見なしているものではない。
あなたは誰なのか、それを見いだしなさい。
”私は在る”という感覚を見守りなさい。
そしてあなたの真我(本来の自己)を見いだしなさい」
グルの言葉を全く疑うことなく誠実にその教えに従った彼は
わずか3年で真我を実現し、偉大な覚者となったのである。
著書より抜粋
「あなたが抱えているすべての問題はあなたの身体の問題・・
食事・衣服・家・友人・名誉・名声・安全・生存、だということが分からないだろうか?
これらの問題すべては、あなたが単なる身体ではないと悟った瞬間に消え去るのだ」
「私の人生はあなたの人生と同じように出来事の連続だ。
ただ私は固執せず、過ぎ去るショーをただ過ぎ去るショーとして見ているだけで、
あなたはものごとに執着し、それとともに動きまわるのだ」
「苦痛と快楽の両岸の間を生の川は流れていく。
生の流れとともに流れていくことを拒んだときそれは問題となるのだ。
生の流れとともにいくときは、来るものは拒まず去るものは追わずという受容を意味している。
求めず、恐れず、起こるままの現実を観察しなさい」
通常はよくつき合う”人”に対して「来るものは・・」という表現がされていますが実はこんなに深いんです!
来るものというのは自分に起こるすべてのことを指します。
嬉しいことも悲しいことも自分の気持ちや状況で決めてる嬉しいや悲しい感情ですから結構勝手な思いなわけです。
それらに振り回されないで必要なこととして受容する、ということです。
去るものというのは起こったことへの過去の感情の執着です。
ああすれば良かった、こんなことになったのはあいつのせいだ、もっとこうしていたい・・などまあきりがないのですが。
記憶を追いかけてしまうのでそれらを忘れる、追わないということです。
「あなたが何かにしがみつくときだけ、心配事は生まれる」
パラマハンサ・ヨガナンダとは?

1930年代にアメリカに渡り、ヒンズー教を広めた人物。
現在もその意志を継いでヒンドゥーの教えを説いているダヤマタという人がいる。
パラマハンサ・ヨガナンダは1952年3月7日、カリフォルニア州ロスアンゼルス(現在も継続している)
においてインド大使ビナイ・セン氏のために開いた晩餐会で演説したあとマハサマディ(ヨギが意識的に肉体を脱ぎ捨てること)にはいった。
この世界的に偉大な師は、神との合一を達成するための科学的行法であるヨガの価値を生前のもならず、死後においても
身をもって証明した。彼の遺体は死後数週間、何ら腐敗の徴候を示さずその顔は神々しい光に満ちていた。
これについてロスアンゼルスのフォレスト・ローン墓地の遺体仮安置所(師の遺体もしばらくここに安置されていた)
の所長ハリー・ロー氏はSRF本部に次のような遺体の検証報告を寄せた。
「パラマハンサ・ヨガナンダの遺体には何ら崩壊のあとが見られない。
これはわれわれの経験ではきわめて異例な現象である。
かれの肉体は死後二十日に及んでも全く分解の色が見えなかった。
皮膚にこのような徴候が見られないのみならず、体内組織にも何ら乾燥のきざしが見えない。
死体がこのように長い間、完全な状態を保持した例は、この遺体安置所が始まって以来類例のないことである。
当初、ヨガナンダ師の遺体を預かった安置所の職員は例によって当然、柩の中の遺体が日ごとに腐敗してゆくであろうと思っていた。
しかし柩のガラス蓋うぃ通して見られるその遺体は何日経っても何の変化も見せず、われわれの驚きは日ごとに増大した。
ヨガナンダ師の遺体はあきらかにまれに見る不朽状態にあった。
遺体はまた、全く死臭を発しなかった。3月27日、柩に青銅の蓋がかぶせられたが、
その直前に見たところ、その遺体は彼が死んだ3月7日の夜と全く変わらず新鮮で、崩壊のあとは皆無だった。
われわれはパラマハンサ・ヨガナンダの遺体が、われわれの経験上まったく異例のものであることをここに証言する」
講話集の「人間の永遠の探求」も素晴らしい内容です。
「怒りを遅くする者は勇士にまさり、自分の心を治めるものは城を攻め取る者にまさる」
人間にとって五感のコントロールは一番の課題であり、その修行は続けなければならない。
人間は何故、腹を立てるのだろう?
自分の望む返答や態度が返ってこないときである。
それでは自分の気持ちだけを満足させようとしているわけで、なんと自己中なんでしょうか!
怒りの生まれる原因を知り、自分の識別力の無さにショックを受けなければなりません。
自分がどんな人間だろう?
正しい生き方をしているだろうか?
なにか役にたつことをしているだろうか?
永遠に探求すべきなのだ・・。
カトリックの聖痕女テレーゼ・ノイマン
ドイツ、バヴァリア、コナースロイトのテレーゼ・ノイマンに関する驚くべき記事がある。
1)テレーゼは1898年の聖金曜日に生まれ、20歳のとき不慮の災難に遭い、そのため失明し、全身不随になった。
2)1923年、「小さな花」と呼ばれるリジュウーの聖女テレーズに熱烈な祈りを捧げた結果、
奇跡的に視力を回復し、その後手足も一瞬のして癒された。
3)1923年以来、テレーゼは毎日、祭壇に供えた聖餅の小さな一片をのみ込む以外は、食べ物も完全に断ってしまった。
4)1926年、聖痕すなわちキリストの傷跡が、テレーゼの頭と胸と手と足に現れた。
毎週金曜日になると、彼女はキリストの十字架上の苦悩を自身の肉体に受け、主の受難の一つ一つを自ら体験している。
5)彼女は平素、その地方のドイツ語の方言しか話せないが、金曜日にトランス状態に入ると、
学者たちが古代のアラム語だと認めている言葉を口走る。
また彼女は幻を見ているとき、ヘブライ語やギリシャ語を話すこともある。
6)教会の許可のもとに、テレーゼはこれまでに数回、綿密な科学的検査を受けた。
ドイツ・プロテスタント新聞の主筆フリッツ・ゲーリック博士は「カトリックの詐術をあばいてみせる」と、
コナースロイトに出掛けていったが、かえってすっかり感動して、彼女の伝記を書くようになった。
この記事を読んでいたヨガナンダはその後、彼女を訪ね、その時の様子を書き残している。
テレーゼはいとも優しい握手で私を迎えてくれた。われわれは互いに目を見交わしながら、
神を愛する者同士の心の通い合いを覚えてほほえんだ。
「あなたは何も召し上がらないそうですね?」
私はこの答えを彼女自身の口から聞きたかった。
「はい、毎朝六時に祭壇に供えた聖餅をいただくほかは何も食べません」
「その聖餅はどのくらいの大きさなのですか?」
「銅貨くらいの大きさで、紙のように薄いものです」彼女はこう答えると付け加えた。
「私はそれを聖餐の意味でいただくのでございます。祭壇に供えたものでなければ、のみ込むことができないのです。」
「もちろんあなたは、十二年もの間、それで命をつないできたわけではありませんね?」
「はい、私は神様の光で生きているのでございます。」
何と明快な答えであろう!何と、アインシュタイン的言葉であろう!」
「あなたは、生命のエネルギーが、エーテルや太陽や空気からからだの中に
注ぎ込まれていることを知っておられるのですね?」
ほほえみが彼女の顔をほころばせた。
「私がどうして生きているのかわかってくださって、ほんとにうれしゅうございます」
「あなたの神にささげられたご生涯は、キリストがおっしゃった、
”人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つのコトバによって生きるものである”
という真理を毎日、実証するものですね」
この説明に、彼女は再び大きな喜びを表した。
「ほんとうにそのとおりでございます。私が今日この世にこうして生きている理由の一つは、
食べ物によらず見えない神の光によって生きられることを証明するためでございます」
「あなたは食べ物を摂らずに生きる方法を人に教えることができますか?」
彼女はやや驚いたようすを見せながら言った。
「いいえ、それはできません。神様がお望みになりませんから」
私の視線が彼女の丈夫そうな、しかし優美な手の上に落ちたとき、テレーゼは、
両手の甲にある最近癒えたばかりの四角い傷跡を私に見せた。
手の平のほうにも、それよりいくぶん小さな、やはり最近癒えたばかりの半月状の傷跡があった。
それらは、いずれもまっすぐに裏側まで突き抜けていた。その傷跡を見て私は西洋ではまだ見たことはないが
東洋では今もまだ使われている、半月形の突端をもつ大きな四角い鉄くぎを想い出した。
聖女は毎週彼女が体験するトランス状態について少しばかり話してくれた。
「私自身は、どうすることもできないただの傍観者として、キリストの受難のありさまを見守っているのでございます」
毎週木曜日の真夜中から金曜日の午後一時まで、彼女の傷口は開いて血を流す。
そして普段55キロの体重は一夜のうちに5キロ近くも減ってしまう。
主の受難の苦しみを思いやって、文字どおり我が身のうえにその激しい苦痛を味わいながらも、
テレーゼはなおこの毎週の主の幻を、喜びをもって迎えているのである。
私は彼女のこの特異な生涯は神によって計画されたものであり、それは新約聖書に記されている
イエスの生涯と磔刑の歴史的真実性を、すべてのキリスト教徒に再認識させるとともに、
このガラリヤの主と信者との間のきずなが今もなお生きていることを人々の目の前に見せるためであることをすぐに理解した。
彼女をよく知る、ヴィッツ教授は生理学的に興味のある話しをしてくれた。
「テレーゼの胃は、何も食べないため萎縮してしまっています。排泄物は全然ありませんが、
汗腺は普通に働いていて、皮膚はいつもなめらかで引き締まっています」
翌日私は、テレーゼの二人の弟から、彼女が毎晩わずか一、二時間しか睡眠をとらないことを聞かされた。
多くの傷を負いながら、彼女は活動的で、つねに活力に満ちていた。
彼女が受け取る手紙の数はきわめて多い。
これはカトリックの信者たちが彼女に祝福や病気平癒の祈願を依頼してくるからである。
彼女の祈りによって難病から救われた信者は、実におびただしい数にのぼっている。
彼女の弟フェルジナントはテレーゼが祈りによって他人の病気を自分に身に引き受ける能力をもっていることを語ってくれた。
彼女が絶食するようになったのは、彼女の教区のある青年が聖職に就く準備中にのどを患ったので、
その病を自分ののどに移してもらうように神に祈った時が始まりだということだった。
<トランス状態の光景>
そして金曜日の朝、彼女の家はトランス状態を見るために遠方から多くの人々で溢れていた。
来客でいっぱいになっている彼女の部屋に入っていくと、彼女は白い寝衣を着てベッドに横たわっていた。
私は入り口の近くに棒立ちになって、眼前の恐ろしい不思議な光景を凝視した。
テレーゼの下まぶたからは、血が薄く二、三センチほどの幅でたえず流れ出ていた。
彼女の視線は額の中央の霊眼の座に据えられている。
頭に巻いた白布は、いばらの冠の聖痕からあふれ出る血でぐっしょり濡れ、白い寝衣は、キリストがその昔兵士の槍に
わきを刺されて最後のはずかしめを受けた、その傷口から流れ出る血で胸のあたりまで赤く染みていた。
母親のような、嘆願するような身振りで両手を差し伸べている彼女の顔には、苦悩とともに神々しい表情が浮かんでいる。
彼女はこの前会ったときよりやせて見えた。そして外見的にも内面的にも多くの微妙な変化を見せていた。
こころもち唇を震わせながら、彼女は超意識の幻の中の人々に何か外国語で話しかけている。
私は彼女の意識と同調していたので、やがて私にも彼女の幻が見えてきた。
彼女は嘲笑する群衆の中を十字架を背負って歩いて行くキリストを見ているのだった。
(テレーゼはすでに、キリストの最後の日々の出来事を幻で見ていた。通常、彼女がトランス状態で見る幻は、
最後の晩餐に続いて起こる事件から始まり、十字架の死または、キリストの埋葬の場面で終わる)
突然、彼女は驚いたように頭を上げた。主が十字架の重みにつぶされるように倒れてしまったからである。
幻は消えた。キリストへの極度の同情の中で疲れ果てた彼女は、ぐったりと枕に頭を落とした。
静寂のあと、私は再びテレーゼの顔を凝視した。真っ赤な血をほほに這わせたその顔は、
死人のように青白かったが、清らかな気高い光を放ちながら今は静かに落ち着いていた。
パラマハンサ・ヨガナンダ著「あるヨギの自叙伝」について
オックスフォード大学教授W・Yエヴァンスウェンツが著者とその師スリ・ユクテスワを語る
マハトマ・ガンジーと共に
ヨガバンダの自叙伝は、インドの聖賢たちについて英文で書かれた数少ない書物の一つであり、
しかもそれが、ジャーナリストや外国人によってではなく、実際にヨガの修行を達成したインド人によって書かれたものであるという点、
すなわちヨギ自身によって書かれたヨギに関する書であるという点のおいて、独特なものである。
これはまた、現存するヒンズーの聖者たちの非凡な生活や能力の目撃談として、
特に今の時代において時宜を得た重要性を持つと同時に、時を越えた価値を有するものである。
私は幸運にもインドとアメリカにおいて、この著者を知る機会を得たが本書を読まれた読者諸君はみな、
この著者にここからの敬意と感謝をささげることであろう。
この世にもまれな生涯の記録はヒンズーの精神と心情の深さをのぞかせるとともに、
インドの霊的富を西欧に紹介したものとして特筆すべきものである。
かつて私は本書にその生涯を紹介されているヨガナンダの師で聖者の一人、スリ・ユクテスワ・ギリに面会する機会に恵まれた。
私が彼と会ったのは、ベンガル湾に臨むオリッサ州のプリであった。かれはその頃、
海辺近くの閑静な僧庵の長として、若い弟子たちに霊的訓練を施していた。
アメリカ、イギリスをはじめ、西洋各国の人々の福祉に深い関心を寄せていた彼は、それらの国々の動きや、
とりわけ彼が1920年、特別の使命を与えて派遣した愛弟子パラマハンサ・ヨガナンダの
カリフォルニアのおける活動状況について、いろいろと私に質問した。
スリ・ユクテスワは、態度や声の穏やかな、風采のりっぱな人で、彼の信奉者たちが進んで崇敬するに値する人物であった。
彼を知る者は、彼と同じ社会に属すると否とにかかわらず、誰もが最高度の尊敬を払った。私は彼が僧庵の入り口に立って
私を迎えてくれたときの姿(脱俗者のしるしであるサフラン色の僧衣をまとった、背の高い、姿勢のよい、いかにも行者らしいし姿)を
今でもありありと思い浮かべることができる。
頭髪は長く、幾分縮れ、ほほには髭を生やしていた。からだつきはたくましく、がっしりしていたが、
それでいてすらりと形よく、その足どりには力がみなぎっていた。
彼の住んでいた聖都プリは、有名なジャガンナート寺院のあるところでここは毎日、
インド各州を代表して参詣にあつまる敬虔なヒンズー教徒があとを絶たない。
スリ・ユクテスワはいっさいの世俗的野心を捨てて、本書に語られている人間の理想を実現するために、
静かな情熱と生涯を捧げたのである。
この本を教えてもらって読んだときの感動は今も忘れられない。
インドの聖者たちの教えはまことに、人間が学ばなければならない素晴らしいものです。
これを読むことは聖書の内容を深く理解することにもなり得るでしょう。
聖者たちが物を物質化する、出来る理由も科学的に説明されています。
何故、人間としての生があるのか?何故、生まれ変わるのか?本当にあの世はあるのか?
キリストや釈迦は何故、現れたのか?何故、人生に苦楽があるのか?何故、いい人が死んでしまうのか?
生きてて、不思議に思うこと、いっぱいありませんか?
正しく、信仰を持ち、宗教を身につけるとすべてが分かります。
ヒマラヤ聖者ババジ
ババジとは、神の偉大な顕現であり、
肉体を持った人の姿で、
人類文明の推移の中で、
人類が神との関係を理解し体験し、
到達することを助けるために出現すると言われる存在です。
伝統的にババジの顕現は、ある時代の様々な時期に人里離れた所に出現し、特に人類が大きな変化や
人類全体の浄化と向上につながる可能性への挑戦を迎える時期に出現すると言われています。
そして手本を示し教えることで、その教えに従い、人類が創造の聖なる源と一体化した意識に再び向かう道をさらに
前進するよう助けることを啓発された少数の人々の変革を助けます。
彼の教えは宗派にこだわることなく、神との調和に生きようとする人々を導く全宗教を支えるものです。
今日、世界のどの主要な宗教の実践者も人生でババジの導きと守護と教えを見つけることができます。
ババジは古代からの永遠の真理に基づいて教えましたが、彼の教えは現代の問題に焦点を定めたものでした。
今日の人間生活で神を体験することは、希有なことと言わざるをえません。
多くの人々が創造主の意識と関わったり、話したりすることは不可能だと信じています。
しかし、時代を通して世界の宗教の何千もの聖者、高徳な男女の体験や言葉を完全に否定しないのであれば、
人々が何らかのかたちで神を見たり聞いたり、さもなければ神性を体験していることを認めざるをえません。
ババジの神話は人類文明の初期までさかのぼるヒマラヤの宗教に残されています。
1946年に出されたパラマハンサ・ヨガナンダ著の「あるヨギの自叙伝」でマハアヴァターババジの物語が西洋に紹介され、
それは1861年から1920年のインドでの人々のババジとの体験を主に記したものです。
ヘラカンババとしての1890年から1922年の顕現を記した本が何冊かあります。
そして今では1970年から1984年2月14日の間で何千人もの人々が体験したババジの顕現についての本があります。
多くの人たちが様々なかたちで今もババジに出会っています。
肉体としては1984年2月14日に”亡くなって”いる。
ババジは形を持たない聖なるものと肉体を持つ創造物、
神と人間をつなぐ懸け橋として働く霊的な存在です。
ババジのインドにおける使命は、予言者たちを助けて、
彼らに天与の使命を遂行させることである。
ババジはたえずキリストと霊交しておられ、ともに救いの霊波を放送し、この時代の人々を救う霊的手段を講じておられる。
完全な悟りに達したこの二人の大使たち、の仕事は世界中の人々に戦争や人種間の反目や、宗教的派閥心や、
唯物主義の悪弊などを放棄するよう啓蒙することである。
ババジは現代の世界の傾向、特に西洋文明のもたらした影響と混乱をよく理解しておられ、
自己を開放するヨガの技法を東西両洋に普及させることの必要性を痛感しているのである。
ババジに関する歴史的資料が全くないということは、別に驚くにはあたらない。
この偉大な大師はいつの時代にも公けに姿を現されたことがないのである。無理解な大衆をいたずらに
驚かせるような活動は、彼の数千年にわあたる計画のどこにも含まれていない。
ババジは唯一の隠れた力である創造主のように、地味に目立たぬように働いています。
キリストやクリシュナや、その他世に知られた偉大な予言者たちは大衆の中での、
活動を通して遂行すべき特定の目的もって地上に下られた大師たちである。
したがって、このような大師たちはその目的を達成されると、すぐに地上を去ってしまう。
しかし、ババジのようにある特定の歴史的事件よりも、数世紀にわたる人類の緩慢な進化に、
より多く関係した仕事を分担しておられるアヴァターも居るのである。
また、アヴァターたちは常に大衆の目を避けて活動していて随時、自分の姿を隠してしまうこともできる。
それにこれらの大師たちは普通、弟子たちに他言を禁じているため、世間一般の人々は、
こうした霊的偉人たちの存在をほとんど知らないのである。
ババジの家族や生誕地は歴史家にとっては貴重なものであろうが、何も知られてはいない。
通常ヒンディー語を話すが他のどんな国の言葉でも自由に話すことが出来る。
不死身の大師の体には老齢のしるしは全く見られず、25歳そこそこの青年のように見える。
色が白く、中肉中背で美しく、しかもたくましいその体は肉眼にも見える光を放っている。
黒い目は優しく落ち着いていて、長いふさふさした髪は赤銅色である。
物質的新陳代謝に依存してない大師のからだは、いっさい食べ物を必要としない。だから、ときおり訪ねてくる弟子たちとの
つきあいでミルクとバターで料理した米や果物などを食べる以外は、ほとんど食べ物を口にはされない。
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