まとまらない話群
占星術の正確さは?
十七の盆提灯
東条英機
大東亜戦争
湾岸戦争開戦日
アッツ島の話
動物の素晴らしき知能とその実話 食べられるために生まれてきたのではない
息を止めることの効果
70歳過ぎて元気になる秘訣
「与えること」と「受け取ること」
バベルの塔
マタイによる福音書4章4節の意
有識者たちの輪廻転生を語った言葉
科学者たちの輪廻転生を語った言葉
セントルイス市のサティアサイババの日
オームとマントラの意味
聖なる河ガンジスの意味
水からの伝言 高木義之さん
大好きな静岡カトリック教会
パピルスとバイブル
面白い漢文の意味
クーラカンリ登頂記録
リンク集少し
占星術の正確さは?
占星術でなされる予言はそれぞれのリーディングによって幾分かの相違があり、
このことはそこに何らかの誤りがあることを示しています。時間的な要素を厳密に突き止めることは困難です。
そしてこのことによって誤差が生じます。占星術は星をたった一つの角度からしか見ることができません。
様々な星を全体的に見ることがないのでそれが誤差の一つの原因となります。
すべては変化します。人々は変わり、同じく星も変わります。
占星術師はこれらの変化を考慮しないためそれによって誤差が生じます。
また占星術師たちは占星学という科学を完璧には理解していないためそれもまた誤差の原因となります。
占星術師たちは純粋な生き方をしていないため、彼らは充分な霊的助けを受けることができず誤りが生じます。
このような各種の誤差があるので占星術を頼りにすることはできません。
それに関わるだけの価値もありません。ーババ
十七の盆提灯 末松太平「私の昭和史」より 二・二六事件
昭和天皇は断固として反乱軍の討伐を主張せられたけれども、
これらの青年将校が順逆を誤ったのは私利私欲からではないことはよく承知しておられた。
その冬が去り、春が来て夏になり民間でいうお盆の日。
ある侍従武官が裕仁さまに呼ばれた。彼は二月二十六日の当直将校であった。
「内々で頼みたいことがある。盆提灯を欲しいのだが・・」
「かしこまりました。一つでよろしいでしょうか」
「十七個欲しい」侍従武官は驚いた。
へんだなとは思ったが早速調達してきてさしあげた。
その晩、人目に立つため軒下にその提灯がかけつらねられた。
ほのかにともる灯りを見たとき侍従武官ははっと思いあたった。
二・二六事件の死刑が十七人であったことを。そして夏のはじめ処刑されたことを。
しかし、裕仁さまはだれにも何もおっしゃらなかった。
侍従武官もお心持ちを察して何もおたずねしなかった。
これは末松太平がノモンハン事件に関わった中島中将から聞いたことだそうです。
昭和天皇の知られざる胸つまる話です・・。
が、私が思うにこれは昭和天皇の後悔の表れのような気がします。
事件当時この事件の判断を天皇自身がしなければならなかった、という天皇の言葉があります。
側近を殺されて冷静な判断が出来なかったような言葉もあります。
将校たちの純粋な思いをのちのち理解したのではないでしょうか。
天皇も間違うことがあるのです。
昭和天皇のこれは”ごめんね”だと思います、思いたいです・・。
和に転じるために東条英機は総理になった
以下、瀬島龍三のインタビューより
東条さんは昭和15年7月に近衛文麿内閣の陸軍大臣として国家のいちばん中枢に入られました。
その翌年の16年7月に在米日本資産の全面凍結が公布され、日米関係は暗礁に乗り上げ戦争は
避けられないという空気になり近衛さんは自信を失われたと思うのだが10月に総辞職をされた。
その後を受けて、昭和16年10月18日に東条さんは内閣総理大臣になり、組閣されました。
戦争が始まったのは12月8日ですから東条内閣成立後、一ヶ月ちょっとで戦争になったわけです。
そこで、なぜこの時期に東条さんを総理大臣にしたかですが、
陛下はなんとかこの戦争を避けようと考えておられ、そのためには陸海軍に対して
強い力を持っている人を総理大臣にしたほうがよいということで、東条さんを指名されたようです。
戦争体勢の入るために軍人の東条英機を総理大臣にしたのでは?
逆ですね。当時、我々のなかでも「陸軍を的確に掌握できる東条陸相を首相にしたということは、和の方向に
大きく転換させようという意図であろうから、現に進行中の作戦準備に大きな変化が起きるかもしれない」という見方と
「東条首相といえども、今の流れを大きく変えることは困難であろう」という見方が交錯しましたが、
いずれにしても東条陸相を首相兼務としたことには、和への方向転換の意図があるという点では一致していました。
それに、陛下にそのような問題について申し上げられるのは内大臣です。
戦後になって木戸孝一内大臣の日誌を読んだのですが第三次近衛内閣が総辞職した10月16日の夜、
重臣会議が開催され、その席上で東条陸相を推挙したということが書かれてありました。
その後瀬島龍三さんの直属の上司になられ仕えるようになって「怖い人」という感じがだんだん変わっていったという。
ものすごく責任感が強く、すべての問題に陣頭指揮をし、紛糾している物事をてきぱきと手際よく処理でき、
非常に切れる人に変わりはなかったという。
が、非常に人間的で情の厚い方だというふうにみんなが感じたそうです。
木戸孝一とは?
木戸孝允(初め「桂小五郎」)の孫。1940年内大臣となり昭和天皇の側近として絶大な影響力をふるった。
「大東亜戦争」という名称と戦争目的(瀬島龍三のインタビューより)
いろいろな呼び方があるがどれが正しいのか?
「太平洋戦争、大東亜戦争、第二次世界大戦、他に植民地解放戦争、アジア植民地解放戦争などがあります。
この戦争は日本が関わった戦争であり、何百万の人が命を捧げた戦争ですから
日本が公式に付けた名前で呼んでほしいと私は思っています。
16年12月12日に閣議決定した名称は大東亜戦争です。
他の名前は東京裁判において付けられた名前で要するにマッカーサー司令部の始動による名前なのです。
ですから、やおおあり私は日本政府が公式に付けた「大東亜戦争」という名前を使って頂きたいと、こう思います。」
どういう意味をもって付けられた名前なのでしょうか?
「それは、日本にとっての戦争目的と関連します。この戦争目的について戦後いろいろ言われていますが、
自存自衛のための受動的な戦争であったというのが、実際のところでしょう。
昭和16年7月に日本の在外資産は全面凍結されて、石油が一滴も入らなくなり、近代国家として動けなくなった。
これが原点で、日本もだんだん腹をくくらざるを得なくなっていって、やむなく自存自衛のために立ち上がったわけです。
(侵略戦争でなかったということをマッカーサーがアメリカに戻った1951年5月3日に
上院の軍事外交合同委員会で「日本が開戦に踏み切ったのは、日本の安全保障のためだ」と証言している)
アメリカは太平洋戦争というようにあの戦争を呼んでいて終戦後に大東亜戦争の呼称を禁止し、
日本にも太平洋戦争と呼ばせるようにしたのです。しかし大東亜戦争のなかには、
米英に対する戦争のほかに、支那事変も含まれています。
大東亜戦争は、大東亜新秩序建設を目的とした戦争であることを意味したものでした。」
湾岸戦争開戦日を予測した瀬島龍三(インタビューより)
開戦日的中まで
湾岸危機が始まった頃、総理は海部さんで韓国に行っておられた。それで1月10日の日曜日に帰ってこられて
夜10時半ごろに私の家に電話がありました。
「明日から東南アジアへ出張することになっているんですが、どうでしょうか」と聞かれました。
そこで私は次のように答えました。
「総理、それは出られないほうがいい。多国籍軍はおそらく、16日から17日頃にイラク攻撃に踏み切るでしょう。
その時期に、日本の総理が東京におられないで、特別な用事もないのに東南アジアを回っておられるのは適当でないと思います」
静かに聞いておられましたが、私が言っただけではダメだと思ってすぐに竹下さんに電話をしました。そうして
「海部さんからこういう電話があって私はこういう風に答えましたから、
竹下さんからも海外出張については取りやめられるようにおっしゃったほうがいい」と言いました。
あのかたは私を”おっちゃん”と呼んでおってこう言われた。
「おっちゃんね、1月16日から17日に湾岸戦争が始まるということについては、僕には何も根拠がない。
だからね、おっちゃんが言うとるから、やめたほうがいいと言っていいか」
それで私は「それでいいですよ」とお答えした。
どうして16日から17日ごろだというのが分かったんですか?
「アメリカが湾岸に第何部隊を置いているというようなことは日本の新聞に全部載っています。
それを細かく見ていくんです。当時、アメリカが湾岸に派遣した中に部隊を船から上陸させる揚陸団が入っていた。
そのことはアメリカが発表していて秘密でも何でもなかった。そのことから、アメリカは上陸作戦を考えておると、そう私は思った。
上陸作戦というものは、潮が高いときに、夜の月の明かりで乗り込んでいくもんなんです。
それが上陸作戦の原則なんです。ですから、秘書に、東京気象台に電話をかけさせて湾岸の満潮の時期を月とを調べさせた。
日本の気象台はしっかりしたもんです。ちゃんと資料があって教えてvくれました。
資料を検討すると、上陸作戦の時期は1月16日から17日が適当であり、遅くとも18日というように判断することができる。
それで海部さんに、半ば自信を持って言うたんです。
また第三次中東戦争のときも一週間以内に終わると言っておられて、見事に6日間で終わってますが?
1967年6月の第三次中東戦争は、エジプト、シリア、イラクなどのアラブ諸国とイスラエルとの戦争でした。
かなり大きな戦争になるというように報道されていたのですが、私は確かに一週間以内に終わると発言しました。
これも湾岸戦争のときと同じで公表されたオフィシャルなデータだけで判断しました。
イスラエルがどのような戦闘機をどのくらい持っているか、地上軍の師団、機甲部隊の兵力はどうなっているか、
対するアラブ諸国の空軍、陸軍はどうなっているか。
それに天候などの資料を揃えて、図上演習をやるとアラブ諸国はは一週間もたないんです」
動物の素晴らしき知能とその実話
動物は人間のように意味のある苦痛を感じることができないと言う人がいる。
動物は痛みを感覚としてもつことはできても、知能に欠けるため自分が傷ついたということを
理解できないので、その痛みには意味がない、というのだ。けれども、ある動物が単に
私達が知るたぐいの知性を示さないというだけで、その動物を愚かだときめつけてしまうのは、
あまりにも短絡的ではないか。
マーク・トゥエインの言葉
「動物を愚かだと決めつけるのは人間のうぬぼれであり、まったくの見当ちがいである。
人間はおのれの知覚の鈍さゆえに動物の賢さを理解できないのだ」
そして人間の知能についても、少しでも枠からはずれているものはなかなか認められなかった。
過去の偉人たちも社会に理解されないできた。
人類に偉大な貢献をする人々が子供の頃に少々枠から外れた知能を持っているだけで誤解されてしまうのだから、
それを考えれば他の動物が示す知能を私達が認識できないのもむりからぬことかもしれない。
人類に偉大な貢献をしてきた人々が子供の頃に少々枠から外れた知能を持っているだけで
誤解されていた、という話をきいたことがあると思います。
たとえば、彼らはこんな風に扱われていました。
アルバート・アインシュアタイン
九才になるまでつっかえつっかえ話したので両親から知能が遅れているにちがいないとおもわれていた。
その後もものを訊かれても長いこと思案しないと答えられなかった。
高校でも数学以外の教科はからきしだめで、先生に退学を勧められ
「アインシュアタイン君、きみは何をやっても決してものにならんよ」と言われたという。
チャールズ・ダーウィン
学校の勉強は全く出来ず、父親に「おまえは一族の恥だ!」と言われた。
トーマス・エジソン
父親には「まぬけ」と、高校の先生には「愚鈍」と、
校長先生には「きみは何をやっても成功できない」と言われた。
ヘンリー・フォード
読み書きがなんとかできた程度で、やっとの思いで学校を卒業した。
アイザック・ニュートン
学校の成績がひどく退学させられなかったのは、家の農場の仕事さえまともに勤まらなかったからである。
パブロ・ピカソ
勉強があまりにもできなかったので、十歳にして退学させられた。
父親は息子を復学させようと家庭教師を雇ったが、ピカソは家庭教師にも見放された。
ジャコモ・プッチーニ
子供の頃、音楽を含め学校の勉強が全くできず、最初の音楽の先生は才能なしと判断し匙を投げた。
また、人間と動物の脳を比較研究した、M・フォックスという学者は次のように言っている。
「人間と動物の脳の違いは思ったより少なかった。驚いたことに、類似点のほうが相違点より多かった。
人間の脳と他の哺乳動物の脳の顕著な共通点は、脳波計によって記録される脳波のパターンに見られた。
たとえば犬の場合、覚醒、穏やかな睡眠、夢、夢想の脳波パターンは人間のものとほとんど変わりない。
中枢神経と内分泌系の性質や働きについても違いはない。ストレスや不安などが感情や生理に
及ぼす影響の生化学分析においても、人間とネズミの間にはほとんど違いは見られない。」
また、動物が素晴らしい知能を持っていることをはっきり示した例は数えきれないほどある。
見知らぬ土地から気の遠くなるような長旅をし、主人と再会する環を誰でも聞いたことがあるでしょう。
カメに助けられた女性
1975年、フィリピンのマニラ沖で、ある船が難破し、沈没した。そのとき海に投げ出された女性は、
大きなカメが自分に手をさしのべようとするかのように泳いでくるのを見て仰天した。
彼女がもがきながらなんとかカメの背に乗ると、カメはふだん決してとらない行動にでた。
ウミガメはほとんどの時間を海中で過ごすが彼女を乗せたカメは丸二日、何も食べずに
水面を泳ぎ続けたのである。おかげで女性は死なずにすんだ。
このカメは人間は海の中では生きられないということを知っていたのだろう。
それに彼女の命をどうしても助けたかったにちがいない。ようやく救助隊が現れたとき、
「目撃者は、女性が無事助け上げられるまで、彼女が石油缶の上に乗っていると思っていた。
その”ドラム缶”はその場で二回、円を描いて消えた」という。
テスおばさんのカナリヤ
テネシー州のハーミテッジ市に近所の誰もが”テスおばさん”と呼ぶ女性が住んでいた。
彼女は一人暮らしで一匹の猫とピプスというカナリヤが家族だった。
テスおばさんの姪夫婦は数百メートル離れた所に住んでいたが独り暮らしの伯母を何かと心配していた。
ある夜、夫婦は妙な音で目を覚ました。窓ガラスを軽く叩くような音で、大きな音でもなにので気にしまいとしたが、
音は鳴り続けた。とうとう姪が起き、家を調べに行った。
カーテンを開けると驚いたことにカナリヤのピプスが気が狂ったように窓ガラスを叩いていた。
この小鳥は一度も家の外に出たことがないのに何とか抜けだし、しかも数百メートル離れた姪の家の窓を探し当てたのだ。
だがこれで小鳥は力を使い果たし、姪が見守るなかピプスは力尽き落ちて死んだ。
姪夫婦が急いでテスおばさんの家に行くと彼女は血を流して床に倒れていた。悪い転びかたをしたのだ。
夫婦の到着がもう少し遅ければ命は助からなかったかもしれない。
テスおばさんを救うためにカナリヤは自分の命を捧げたのだ。
ブタのプリシラ
あるときUPI通信社が写真つきの記事を全国の新聞社に送り多数の新聞社がそれを掲載した。
写真にはキャロル・バークさんと11歳になる息子アンソニー君、そして一匹のブタが写っていた。
”事件”は親子でヒューストン湖に行ったとき起こった。泳いでいた少年はうかつにも沖に出てしまい恐れ慌てるうちに溺れはじめた。
すると少年のペットだったブタのプリシラが急いで水に飛び込み少年のほうに泳ぎだした。
少年の危機を察知したに違いない。アンソニー君の母はなすすべもなく見守っているだけだ。
ブタが泳ぎ着くまで少年はかろうじて浮いていた。少年はブタの革ひもにつかまった。
プリシラが息子を引っぱって岸に泳ぎ着くのを母親は畏怖の念に打たれて見つめていた。
盲目のメアリー
アーサー・ピーターソン博士の話。
数年前自分の地所にある池で博士は奇妙な行動をするアヒルに気づいた。
その光景に魅せられて博士はアヒルを観察し始めた。すぐにどういうことなのかわかった。一羽の雄(ジョン)が一羽の雌(メアリー)を付きっきりでいたわっているのだ。しかし繁殖期のことではなく、その行動は簡単に説明できるものではなかった。博士は深く興味を持ち手掛かりを得ようとアヒルの観察を続けた。ある日、ジョンがほんのしばらくメアリーから離れたすきに博士はすばやく近づいて網でメアリーを捕らえ、調べてみた。すると驚いたことにメアリーは全く目が見えなかったのだ。博士は深く胸を動かされ、盲目のメアリーを離した。しばらくして現れた”目の見える”ジョンはすぐにメアリーに近づくと「クワッ、クワッ」と安心させるように大声で鳴きメアリーを導いていった。
息を止める訓練がもたらす驚くような効果
「アインシュタイン・ファクター」という本を書いたアメリカの悩研究学者の
ウィン・ウェンガーは学生の頃、成績を上げるためにサマースクールに通ったといいます。
午前中授業を受けて、午後には何時間もプールで泳いで過ごしました。潜水が好きで水中にもぐり、
息を止めるということをよくしていました。ついには4分半ほどもぐっていられるようになりました。
すると不思議なことが起きました。これまでパッとしなかった成績がよくなり、試験を受ければすべて満点。
その夏の終わりにはクラスのトップに躍り出ました。
ここに悩の秘密が隠されていたのです。
潜水で息を止めると、悩は酸素が減少していると錯覚し、頸動脈が大きく開いて多くの血液を脳に運ぶのです。
それによって、酸素を含んだ血液が通常以上に脳にいきわたります。
息を止めることで血液中の二酸化炭素が増加すると、脳はそれを酸素の在庫が減ってきていると解釈するのです。
そこで血管が広がり、脳に酸素がいきわたりやすくなるわけだそうです。
70歳から心機一転、40代の内臓を作り上げたノエル・ジョンソン
彼は70歳のとき、神経痛、痛風、心臓病にかかっており、ブヨブヨでガタガタの体でした。
そこから心機一転、超人になろうと決意しました。かれは心身を鍛え、世界シニアボクシングのチャンピオンになり
シティマラソンにも参加し、世界最長老の金メダル獲得者になったそうです。
83歳のとき、かれの内臓は40代前半そのもので医師たちを驚かせたのです。
かれはその秘訣を4つのポイントで語っています。参考にしてみてはいかがでしょうか。
1)保息 呼吸をするときに、吸う・止める(保息)・吐くのうち、息を止める時間を少しずつ長くする。
2)病を治すのも若返るのもマインドパワー(イメージング)にかかっている。
健康で若さに溢れた自分の肉体をしっかり脳裏に描くこと。
3)活性食(生きた食べ物)を食べること。死んだ食べ物(砂糖・肉類・添加物入りのパンなど)は摂らないこと。
果物や植物の種子・葉・ナッツ類・ハチミツ・野草類を摂ること。
4)細胞の働きを高め、全身の筋肉をバランスよく鍛えること。なるべく立っていること。
これは背骨の強化と筋肉の刺激になる。
「与えること」と「受け取ること」
からだがじょうぶであるだけでは健康とはいえない。
健康とは頭も心もしっかりしていて、人生全般にわたって配慮が行き届いている状態を意味している。
だれしも世界から孤立して生きることはできない。
世界に対する配慮が行き届いている人は世界からそれだけ多くの授かりものを受けるようになる。
宇宙はいくつかの法則にしたがって連行しているがなかでもいちばん基本な法則は
「与えること」と「受け取ること」の共鳴という自然の法則である。
人生は与えることと受け取ることの絶え間ないプロセスである
結局のところ、この地球で生命を与えられていること自体がギフトなのであり、
だからこそ私たちはこんなにも多くを与えることができるのである。
流れと動きがあるところに、いつでも生命は存在しるのだから。
両極間のバランスのとれたリズミックなやりとりを滞らせないことがとても大事なのです。
私たちは毎日誰かに関わるなかで、助けられたり、お世話になったり、親切にされたりして生きている。
自然からも多くのものを与えられていることを決して忘れてはいけない。
相手に対してしたことは、最終的にはその人に戻ってくる。
好むと好まざるとにかかわらず、私たちの心は他者の心とつながっているのです。
自分だけは何にも依存することなく、すべて自分の思い通りにやれると信じている人がいるかもしれない。
だけど、私たちは皆、同じひとつの生命力を分かち合っているのであり、
誰かに与え、また与え返すことによって自分の生命力の成長を助けているのである。
ある著名な医師によると、
与えることの少なかった人はよく与えた人よりも、年をとってから痛みやうずきに悩まされることが多いそうです。
否定的な考えや行動もからだの複雑な生理作用に悪影響を及ぼすらしい。
バベルの塔 ”バベル”とは混乱という意
旧約聖書の初期では、神と人がバトルを繰り広げている。
ノアの子孫たちは東方の地をさまよい、シ・アル(バビロニア)に住みついた。
その頃、世界中の人々は同じ言葉を使って話をしていたという。
一部の住民は天にも届くほどのれんがの高い塔を町に建設し、有名になろうと考える。
人間たちのうぬぼれと傲慢な態度が現れてきたのだ。
ところが危機感を抱いた神は、高々とそびえ始めた塔を見てこう言うのである。
「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。
これでは彼らが何を企てても妨げることはできない。
我々は降りていって、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
(創世記 11章より)
ある聖書の解釈によると大洪水を恐れた人々が、それを免れるためにバベルの塔の建設に着手したというものがる。
この考えも神にしてみれば神を信じることなく自らで解決しようとする傲慢さと解されるだろう。
つまり神を無視した人々の傲慢さが神の怒りを買ったのである。
その結果、神によって人々が使っていた言葉は変えられ、お互いに全く通じなくなってしまう。
そこで彼らは大混乱に陥り、町の建設をやめ、世界中に散らばっていったのである。
いつしかこの町の名はバベル(混乱)と呼ばれるようになった。
マタイの福音書4章4節の意味
「人はパンだけで生きるものではない神の口から出る一つ、一つのコトバで生きる」
これは人体が何によって維持されているのかを示している一節なのです。
人体という蓄電池は食べ物(パン)のみではなく、
宇宙エネルギーの波動(コトバ、オーム)によって維持されている。
すなわち、不可視の生命力が延髄の門を通って人体に流れ込んでいるのである。
この延髄の中枢は、脊髄に沿って位置する5つのチャクラの上にある第6番目の中枢である。
チャクラとは→(生命力を放射する中枢で”車”の意のサンスクリット)
この延髄中枢は、人体に宇宙生命力(オーム)が流入する正門で、
眉間の第3の目にあるキリスト意識の中枢(クタスタ、”意志の力”の座)と対局の関係にある。
延髄中枢を通して取り入れられた宇宙エネルギーは、脳の中にある第7番目の中枢にたくわえられる。
この最高の中枢は、無限の可能性の貯蔵庫でヴェーダで”千枚の花びらをもつ光の蓮の花”と呼ばれている。
オームのことを聖書では、精霊とか、万物を維持している不可視の生命力と述べている。
「あなたがたは知らないのか。自分のからだはその内にある、神から受けた精霊の宮であって、自分自身のものではないのである」
コリント人の手紙6章19節より
有識者たちの輪廻転生を語った言葉
カール・ユング
「人生は時に始まりも終わりもない一つの物語のように思えることがある。
自分が歴史の一部分で、前後のテキストを失った抜粋のような気がするときもある。
私は確かに、前世紀にも生きていて、その時出会った問題に答えを出すことができなかったような気がする。
つまり、その時に与えられた任務を十分に果たさなかったために、もう一度、生まれてこなくてはならなかったように思えるのだ」
アルバート・シュバイツァー
「輪廻転生の考え方は現実をとてもうまく説明してくれる。
そのために、インドの思想はヨーロッパの思想家を悩ませている困難な問題を、楽々と乗り越えているのだ」
ビクトル・ユゴー
「そしていまだに、彼女の哀しみは癒されてはいなかった。やっとのことで、次の子供が生まれた。
父親の喜びは大きく、「息子だ、息子だ!」と大声で叫んでいた。
その日、大喜びしていたのは父親だけだった。母親は気が沈み、青ざめた顔でベッドに伏していた。
彼女の個々rは疲れ果てていた。
その時、彼女は急に哀しみにおそわれて泣きはじめた。
彼女の心は新しく生まれた子供のことより、亡くした子供のことばかりを思いだしていた。
「私のかわいい坊やはお墓にいるというのに、私はあの子のそばにもいてやれないのだわ」
腕の中に抱きかかえている生まれたばかりの赤ん坊に、彼女は語りかけた。
するとその時、彼女はあのよく知っている愛らしい声を聞いた。
「ママ、ボクだよ!でも誰にも言わないでね!」
生まれたばかりの赤ん坊はじっと彼女の顔を見つめていた。
ラルフ・ワルド・エマーソン
「この世の秘密とは、すべてのものは死なないということだ。
しばらくの間、視界から消え失せても、あとで再び戻ってくる。何ものも死なない。
人間は死ぬふりをするだけだ。
見せかけの葬儀、悲しげなとむらいに退屈して死者は別の姿をして、元気はつらつ窓から外を覗いている」
ウィリアム・ワーズワース
「この世に生まれてくることは、眠りと忘却にすぎない。
肉体の中に宿り、我々の星である魂は、はるかかなたから来て、あらゆる場所に生まれる。
しかし、生まれる前のことを完全に忘れているわけではない。
肉体の衣のうしろに栄光の雲をたなびかせて、我々は神のみもとの故郷よりやってくるのだ。
幼年期には天は我々のまわりにあるのだ」
ニーチェ
「私の主張は以下のとりである。
再び行きたいと思うが如くに生きよ。それが諸君の義務である。
いずれにせよ、諸君は戻ってくるからだ」
ウォルト・ホイットマン
「私は死なないと知っている。これまでに、私が一万回も死んでいることは疑いがない。
あなた方が死滅と恐れるものを、私は笑う。私は時の大きさを知っているから」
キケロ
「ここにまた、人は生まれる前からほとんどのことを知っているということを示す強力な証拠がある。
人はほんの子供の時に、非常に、急速に数多くのことを理解するが、
これは私達がその時初めてそれらのことを学んでいるわけではなく、
それらのことを思い出しているということを、示しているのだ」
トルストイ
「前世で自殺した男の今生での体験の物語を書いたとしたら、さぞかしおもしろかろう。
前世では直面した様々な問題に、彼は今生でも再び遭遇する。
そして、それらを解決しない限り、そこから先へは進めないことに気づくまでの物語になろう・・。
過去の人生で行ったことが、現在の人生に方向性を与えているのだ」
プラトン
「神に見放されていると思っている若者よ。
もし、君が悪くなれば、さらに悪い魂となり、
もし君がさらに良くなれば、さらに良い魂となることを知りなさい。
そして、生と死が繰り返されるたびに、君はなすべきことをなし、同類の者によってこうむらなければならないことを、
こうむるだろう。それが天の公平というものなのだ」
モハンダス・K・ガンジー
「私は生まれ変わりを信じているものとして、この人生ではできなくても、いつか、他の人生で、すべての人類を友情をこめて
抱きしめることができる日が来るという希望を持って、生きている。
レオナルド・ダ・ヴィンチ
「おお。読者の皆さんよ、もし私の書いたものの中に歓びを見出すなら、私の本を読んでください。
なぜなら、私はこの世の中に、めったに戻ってくることはないのだから」
ベンジャミン・フランクリン
「この世界に存在する自分を見るにつけても、私は常に自分が何らかの形で存在するだろうと信じている。
そして人間生活はかなり不便であるにもかかわらず、私は自分の新しい「版」に文句をつける気は毛頭ない。
だが望むらくは、前の版の「誤り」は直してあってほしいものだ」
ゲーテ
「私はここに千回もいたと信じている。そしてまた、千回も戻って来たいと思っている」
ルドルフ・シュタイナー
「死んでから新たに生まれるまでの生活は、
生まれてから死ぬまでのこの世の生活と同様、豊かで変化に富んでいる・・」
グスタフ・マーラー
「われわれはみなこの世に還ってくる。それが確かだからこそ、人生には意味がある」
「死後の生命」や「生まれ変わり」に」ついて国内外の科学者の言葉
ブライアン・L・ワイス博士(マイアミ大教授)は科学の進歩の歴史を例にあげながら、次のようにおっしゃっています。
「歴史をふりかえってみても人々は変化や新しい考え方に対して、いつも大きな抵抗を示してきた。
そのような例は枚挙にいとまがない。ガリレオが木星の月を発見した時、当時の天文学者たちは
それを受け入れようとしないばかりか衛星を目で見て確かめようともしなかった。
木星の月の存在は、自分たちが信じている仮説と矛盾していたからだ。
現在もそれと同じことが起こっている。精神科医やセラピストたちは、肉体が死んでも魂は生き続けるということや、
過去生の記憶などについての多くの証拠を、調査することはおろか、評価することさえも拒否している。
彼らはしっかりと目を閉じているのだ。」
ロバート・アルメダー博士(ジョージア大教授)は近年の具体的事例を幅広く分析したうえで次のように結論ずけている。
「この二、三十年間、生まれ変わり,霊姿,憑依、離脱体験、死者からの通信と
いったものに関する証言が、科学的方法を用いて検討されるようになった。
こうした研究の成果は、哲学者の立場から見て印象的なものであり、
死後にも何らかのかたちで存在を続けるとする考え方を裏付ける、
強力な証拠となっている。
死後の生命という考え方は、最強の懐疑論の猛襲にも耐えられる、
というのが私の結論である。
死後には何も残らないと考えるよりは何らかのかたちの生命が、
存在すると考えるほうが、理にかなっているのである。」
臨死体験研究の権威 エリザベス・キューブラーロス博士は
いくら科学的証拠を示しても認めたがらない否定論者たちに対して皮肉たっぷりにこう述べます。
「私が何を申し上げたいのか、おわかりですか?
ある事実に納得がいかないと人はそれを否定する何千もの反論を持ち出してくるのです。
これはその人自身の問題であり、そのようなひとを無理矢理に説得しようとしてはなりません。
いずれにしても、死ねばわかることなのですから。」
中村雅彦教授(愛媛大心理学者)
「生まれ変わりを信じる、信じないは個人の思想、信条の自由である。
しかし、科学の世界では生まれ変わりが本当にあるのか、ないのか、
その真実性を問題にする。そのためにはたくさんのデータを集めてこなければならない。
私は何らかの結論が出るほどのデータが集まるまでは、その可能性を否定しない、という姿勢を保ちたい。」
しかも中村教授は、これまでの研究を客観的に分析したうえで、
「生まれ変わりがある得る」との判断を示し、勇気を持って次のように告白しています。
「最初はトリックやでっちあげを、暴いてやろうと思って文献購読を始めたのだが、
読めば読むほど厳密な研究の姿勢に感心して、同時に人の心の時空を越えた広がりを実証するのは、
こんなにも難しいものかと驚きました。気がついてみたら、ミイラ取りがミイラになってしまっていたのである。
セントルイス市 サティア サイババの日
2005年9月11日に、米国ミズーリ州セントルイス市はサティアサイババとその業績を称えて、
この日をサティアサイババの日と呼ぶことを宣言しました。セントルイス市の人口は35万を超え、
周辺の大都市圏には250万人以上の人々が住んでいます。
市長の声明文
サティアサイババは現代世界で最も尊敬されている霊的教師のひとりであり、
その生き方と教えは、全世界の何百万人もの人々を啓発して神へと向かわせ、
より有意義で道徳的な生き方をするように導いています。
サティアサイババは南インドのプッタパルティという小さな村に生まれ、
サティアナーラヤナラージュと名付けられました。
サティアサイババは14歳で自らの使命を宣言しました。
それは、真理、正義、愛、平安、非暴力という至上の原理の手本を示し、
それらを教えることによって人類の霊的復興をもたらすことです。
サティアサイババは、生涯の活動を通して、教育制度を確立しました。
そこには小中学校、高等学校、学士号・修士号・博士号の過程を備えた正式認可の大学が
含まれており、学費はすべて無料です。また、最高水準の第三次医療を提供する二つの
病院を含む四つの病院とシュリサティアサイオーガニゼーションを設立しました。
セントルイス市は、謹んでサティアサイババのさまざまな人道的業績ゆえに
同氏を称え、同氏が生涯にわたって使命達成の旅を継続される間、
健康と平安と幸福に恵まれますようにと、心よりお祈りいたします。
またここに、セントルイス市の市長である私、フエアンシスGスレイは2005年9月11日を、
セントルイス市における
「シュリ サティア サイババの日」とすることを宣言します。
”オーム”と”マントラ”の意味
オームという言葉を聞くとほとんどの日本人が朝原彰光率いる最悪の宗教団体を想い出すことでしょう。
これほど神聖でエネルギーに満ちた言葉はないのに、悪いイメージとして定着してしまいました。
ここで本当の意味を説明してみます。
<オーム>シンボル↓
オームは形を持たない神が創造のプロセスを始める波動として発したといわれている。
この世界(宇宙)がまだ形として何も無いときの宇宙原動機の振動音。
「初めにコトバがあった。コトバは神とともにあった。コトバは神であった。
・・・・すべてのものはこれ(コトバ、オーム)によって出来た。出来たもののうち一つとしてこれによらないものはなかった」
と、聖書にも書かれているのです。
シンボルの形があるが、パッと見ると数字の30に見えるらしい。
私はオームのペンダントをいつも身に付けているがよく、聞かれる。
「その”30”って何?」
チベットやインドに行くとあちらこちらで目にするはずです。
日本の雑貨屋さん(東南アジア系)で売っている布小物にも多くデザインされています。
とにかく”オーム”という言葉はとても、とても神聖な言葉だということだけでも知っておいてくださいね。
<マントラ>
日本でも密教を信仰している人はご存じだと思います。
又、厄払いなどに行くと、「オン コロコロ ・・・・ソワカ」なんていう言葉が書かれたものをもらい、3回唱えるように。
と、言われたことあるのではないでしょうか。
”マントラ”とは心を集中して唱えることによって救いをもたらす言葉なのです。
又、聖なるサンスクリットの語句や声明をいつも繰り返し唱えることで帰依者の心を神とつなげるもの。
最近は言葉の波動を理解する人が増えてきました。
「ありがとう」「大丈夫」「愛している」などポジティブな言葉が心身によいということを知っていますね?
このような良い言葉のずーっと延長線上にある、強力な言葉がマントラだと思ってください。
プレマのユニフォームのTシャツには”ガヤトリーマントラ”という素晴らしいマントラがプリントしてあります。
部屋の入り口、壁にも貼ってあり、プレマは神聖な波動に包まれており、ここで悪いことは一切、起こりえません。
それだけ強力なものであると同時に、軽々しく扱ってはいけないものとして昔から大切にされてきました。
有名なマントラで短く簡単なものを二つ紹介します。
「オーム ナマ シヴァイ」 「オーム サイ ラム」
聖なる河 ガンジス
インドやチベットの人々は”ガンガー”とも呼ぶ。
ヒマラヤはシヴァ神の住みかでここに源を発するガンジス河をつかさどっているのが天より天下った女神ガンガーである。
女神ガンガーのつかさどる聖なる河であるガンジス河の水はヒマラヤの永遠の雪と静寂に包まれている。
古来、何千人という聖者が好んでこの河のほとりに住み、その沿岸一帯に祝福の霊気を残していった。
このガンジスの著しい特徴・・・・
それはおそらく、他には見られないものであろうが、この河の水が全く病原菌に汚染されないことである。
昔から今日に至るまで、何百万というヒンズー教徒がこの河で水浴し、また、この河の水を飲んできたが、
今だかつて害を受けたことがない。この事実は現代の科学者にとって一つの謎であるらしい。
聖典ヴェーダはわれわれが一切の自然現象に対して崇敬の念を持つことを教えている。
敬虔なヒンズー教徒にはアッシジの聖フランシスの次の賛歌がよく理解できる。
神はたたうべきかな
われらに姉妹(きょうだい)なる水をたまう
そのなんと有用にしてかざらず
清楚にして貴き
ご飯に毎日「ありがとう」「ばかやろう」と声をかけたら・・・

普通に炊いたお米を2つの同じガラス容器に入れ、一方には「ありがとう」、もう一方には「ばかやろう」と
言葉に出して毎日声をかけ、それを1ヶ月間観察した記録がある。
結果「ありがとう」と声をかけ続けたごはんは、半ば発酵状態となり匂いを嗅ぐと芳醇な麹のような良い香りに。
一方「ばかやろう」のごはんは真っ黒に変色して腐り、その臭いはひどいものに。
この実験は何人もの方がやって、同じ結果を出しているそうです。
お子さんと是非一度、実験してみてください!言葉の大切さを楽しんで教えることができます。
微生物さんも私たちと同じでほめられれば良く働くし、けなされればふて寝をしてしまうのでしょう。
あきらかに微生物さんは善玉菌と悪玉菌に分かれてしまったのです。
環境が大事ってよーくわかりましたね!
水に文字を見せたり、音楽を聴かせた実験結果があります。
これは音声また紙に書いた言葉さえすべてのものに影響する、というものです。
話題になって5,6年経つと思いますがまだ知らない人に伝えたい。
わたしはセラピーでこの本(水の結晶という本が売られています)を多いに活用しています。
人にわからなくても心に悪い思いを持ったら自分の身体に悪影響を及ぼすのです。
病気と心のあり方が密接いや、全くもって切り離せないものだということです。
子供に見せるととってもいい教えにつながると思います!
一家に一冊置いておくのを心からお勧め致します。
少しばかりの写真を紹介してみます。
<実験方法>
ベースになる水は「基本の精製水」を使用。
いろんな文字をワープロで打ってガラス瓶に貼り、中には精製水を入れる。
一晩放置してから凍らせて写真撮影をしたものです。
数ある実験の中からひとつ紹介します。
→阪神淡路大震災3日後と3ヶ月後
震災三日後というと家族を失い、家を失い人々は悲しみにくれています。
しかし、三ヶ月後の右の写真は悲しいけど希望も湧いてきています。
同じ場所で採取した水がこんなにも違うのですね。
大勢の人の思いが波動にのりこのように影響することがはっきり証明されました。
水がこんな風になるのだから血液や細胞も影響受けるわけです!
病気になりたくなかったら、心を清らかにしなければなりません。
ネットワーク地球村の高木義之さんをしっていますか?
「地球村」とは国連などが提唱している”Earth Village” 「地球と調和する社会」のこと。
高木さんはその実現を目指して啓蒙や提言をしています。
地球環境は一般に知られているより、はるかに深刻です。
でもまだチャンスはあります。多くの人が事実に気づき、できることを始めることにより世界を変えることができるのです。
大切なことは、多くの人に事実実態を知らせることです。
事実を知った人が自分のできることをしながら、事実を伝えていくのです。何事もはじめは一人です。
一人が変わることで周りが変わり、世界が変わります。
あなたもその一人になってください。自分が世界を変える一人になるなんて何と素敵なことでしょう。
最近静銀ユーフォニアで講演を行って静岡でも反響を呼び、日本全国各地で講演をすでに行っています。
理解してたはずの環境問題があまりにも貧弱な情報だったのに驚きを覚えている。
深刻という言葉では足りないくらいである。講演のビデオを私も見ましたが素晴らしい内容に圧倒されました。
内容は深刻なことだけど、夢中になって見てしまう語り口調でそれが真実の言葉なので引き込まれてしまうのです。
変なカリスマ性は全くありません。自分の言っていることをきちんと実践している素晴らしい方です。
ここに高木さんの末娘”加乃ちゃん”のエピソードを紹介します。
こんな子に育ったらステキだなあと思うような女の子です。子育ての成功例とでもいいましょうか。
メガネザル
小学校に入学してまもなく「近視ですからメガネをかけるように」と言われました。
メガネを買ってやると「よく見える、よく見える」と大喜び。
初めて学校にメガネをかけていった日のお昼、先に帰ってきた兄が
「お母さん、きょう学校でね、加乃が「メガネザル、メガネザル」って言われてたよ」と告げました。
母親は驚き、いろんなことを考え、心配したそうです。
「加乃はメガネをかけて帰ってくるだろうか」「学校であったことを話すだろうか」
「明日からメガネをかけるのを嫌がらないだろうか」「これがイジメにならないだろうか」
と、考えながら娘が帰るのを待っていたのです。
そこに娘はメガネをかけてニコニコ帰ってきたそうです。そして早速、
「お母さん、聞いて聞いて!きょうねメガネをかけていったでしょ?そしたらね、みんながメガネザルとかパンダとか
いろんなことを言ってくれたの。楽しかった。そしてね、今度みんなで動物園に行こうってことになったの。
いいでしょ!やったー!」と嬉しそうに話したので母親はほっと胸をなでおろしたそうです。
それを聞いて私もとても嬉しく思いました。
ハゲ
娘は生まれたとき頭に3センチぐらいのアザがありそこだけ髪が生えません。娘にそのことを知らせています。
「加乃は生まれたときからアザがあって、そこだけ髪が生えないんだよ」とよく見せます。
普段はそこは髪で隠れています。うちでは事実を話すだけで、そこにいい悪いなどの余分な意味をつけません。
小学校に入学してしばらくして担任の先生から電話がかかりました。
「お宅のお子さん、頭にハゲがありますね。きょう外へ出たとき風が強くて、髪の間からハゲが見えましてね、
周りの子供達が「あっ、ハゲヤ、ハゲや」と騒いだんです。私は咄嗟にどうしようかと迷っていたのですが、
お宅のお子さんは「見て見て、私ね、生まれたときからアザがあってね、ここだけ髪が生えないの。」と言って
自分で髪を上げてみんなに見せて回ったんです。そしたらみんなも「どうして」とか「もういっぺん見せて」とか言って
何べんも納得するまで見たんです。するとあとは何も言わないんです。驚きました。
これだったらイジメは起きないですね。おたく、どんな子育てしているんですか」と驚いていました。
古い筆箱
うちではあまり新しいものを買い与えません。
娘が小学校に入るとき、母親は自分の古い皮製の筆箱を出してきて、
「これはお母さんが小学校の時から大切に使ってきた宝物なの。これを買ってくれたお父さん、加乃のおじいさんは
お母さんが小学校のとき亡くなったの。お母さんはこれをお父さんの形見としてとても大切にしてたのよ。
お前が大切に使うんだったら、あげようか」と話しました。
娘は「うん、大切に使うからちょうだい!ちょうだい!」と言ってそれをもらいました。
ある日、担任の先生から電話がかかってきました。
「お宅のお子さん、古い筆箱を持っていますね。きょうそれがクラスで話題になりましてね。」
先生の話によると男の子が娘に「お前の筆箱、古いやないか、僕のはこんなんやで」とピカピカの筆箱を自慢したのです。
ほかの子も周りに集まってきて、娘の古い筆箱のことを囃し立てたそうです。
それに気づいた先生が咄嗟に何と言おうか迷っていると娘は
「ねっ、古いでしょ!いいでしょ!これはお母さんが子供の頃から大切に使っていたんだって。
おじいちゃんの形見なの。私も大事に使って、私の子供にこれをあげるの。」と言ったそうです。
周りの子供達は一瞬シーンとなり、そしてしばらくすると男の子たちが
「ふーん、ええな」と言ったそうです。先生はそれを見て大きなショックを受けたそうです。
子供は純白
子供たちに大切なのは生き生きと生きていくことです。
そして本当に必要な能力はもともと付いているのではないかと思います。
子供は自然や周りから必要なことを学びながら生きていく能力があるのです。
子供には区別する能力はありますが、偏見や差別はありません。
お金がないことや勉強ができないことを悪いことと考えたり、差別することを子供に植えつけ、
イジメや自殺に追いやっているのは誰でしょう。
私は優越感やコンプレックス、差別といったものが生きていく上で必要なこととは思いませんし、
生き生きいきていくことの妨げになると思います。
私は子供には事実を伝え、何が必要か何が大切かを自分で判断できるよう心がけています。
静岡カトリック教会(聖母幼稚園の隣)

洗礼を受けてはいないが教会へ行ってたまにお祈りをする。
ここの教会はとてもいい雰囲気で大好きです。
神父さんも優しい方です。(プロテスタントでは牧師と呼ぶらしい)
誰もが神聖な気持ちになってしまう教会、たまに行ってみるのもいいですよ。
私は教会で自分の利己的な部分や日頃の言葉、想い、行動を振り返り心から反省します。
誰かを傷つけたり、悲しませたりしませんように。みんな幸せになりますように・・・と。
パピルスとバイブルの話
ある製紙業を営んでいらっしゃるお客さまとEメールのアドレスを交換しあった時のこと。
アドレスが”Papyrus”(パピルス)と書かれていました。
聞いたことあるような名前だけど、どんな意味だろう・・?と思ったらそれを察してか、
「単純にさ、紙のことなんだよ!」と教えてくれたのでした。
その場はふ〜ん・・と納得して終わったが、そのしばらく後でくわしい意味を知ることができた。
旧約聖書を読んでいたら、こぼれ話で載っていたのです。
私としてはとても興味をそそられた話だったので、”紙”に関わって仕事をしている方に
話のタネとして是非一読して頂ければと思います。
その昔・・・
聖書の写本の多くは羊皮紙が使われていた。巻物に使用されるには、薄くなめしたものが必要だったが当時、
羊皮紙は大変高価なもので位の高い祭司らしか使えなかった。
そのためエジプトでは代用品としてナイル流域に豊富に茂っていた
葦の繊維を使用して作られたパピルスが使われていた。
パピルスはカヤツリグサ科の大型の水草が原料で、その製法はまず茎を採り、皮をはいで細く裂き、
それを格子状に並べて重しをかけて乾燥させ、さらにこすって滑らかにした。
エジプト人がその作られた紙のパピルスのことを「ビュブロス」と呼んだ。
「ビュブロス」はギリシャ語の「ビブリオン(書物)」の語源。
パピルス(紙)=ビブリオン(書物)というわけで、紙・書物イコール聖書とつながるのです!
ギリシャ語のビブリオンこそ聖書を表す言葉である「バイブル」のもとになっているのでありました。
語源て知ってみると面白いものですね!
面白い漢文の意味
杏林 医者の美称 この名前を付けたお薬やさんに納得!
三国時代、呉の国の董奉という名医は、貧しい人から医療費を受け取らなかった。
そこで、ある農夫は母親の治療代として董奉の門前に杏の木を二本植えた。
これをきっかけに董奉は、重症者には五本、軽症者には一本の杏の木を植えてもらうことにした。
数年後、杏は林になって「杏林に春満つ」と言われ医学と徳を兼ね備えた医者を褒め称える言葉となった。
董奉は董仙杏林と呼ばれ幸福な人生を送ったという。
塞翁が馬 人生の幸不幸が変わりやまないたとえ。この言葉はかなりの方がご存じかと思います。
国境の塞(とりで)の近くに住む老人の馬が胡の地へ逃げた。
隣人が慰めの言葉を述べると老人は「きっと幸いがやってくるだろう」という。
そのとおり逃げた馬は胡の地の馬を連れて帰って来た。
隣人が祝いの言葉を述べると今度は「禍いのタネになるかもしれん」という。
まさに息子が落馬して不具者になってしまった。しかし老人は「幸福のタネになるかもしれん」という。
その後大戦争が起こり息子は不具であったため兵役を免除された。
まったく、世の中の禍と福の変化は測りがたい。
渾頓 物事の区分のはっきりしないさま
渾頓は中央の帝。彼の所に北海の帝と南海の帝が、旅行中に立ち寄ったがその接待に感激。
そのお礼に人間が備えている目耳鼻口を開けてやることにした。
なにしろ彼の体全体がノッペラボー、ズンベラボーで何もない。ウンコが水中に浮かんでるようなもの。
一日に一つ穴をあけ、七日目に完成したところ彼はグニャっとなって死んでしまった。
矛盾 あまりにも有名な・・!。(
楚の人で盾と矛とを売る者がいた。
ほめていうに「吾が盾の堅固なことどんな武器でも突き通すことができない」と。
また矛をほめていうに「吾が矛の鋭いこと、どんな物でも突き通さないものはない。
ある人いうに「お前の矛でお前の盾を突き通したならばどうだろう」と。
さすがの商人も答えられなかった。
余談 断腸のおもい
このはなしを高校のころ読んで深く心に残っていた。
子供を持ってからは、この話の情景を思い浮かべると母猿の気持ちが胸に沁みてたまらない。
中国の山と山の間を流れる川は激流が多い。
ある時子ザルが遊んでいて川に落ちてしまった。母ザルは子ザルを助けたくて川岸を追いかけた。
必死で追いかけるが川の流れが早過ぎて、そこに見えているのに追いつかない、とどかない・・。
川岸もまた険しく、母ザルは走って、走って腸がちぎれても子ザルを追いかけた。
あとほんの少しなのに手がとどかない。助けられない。
死ぬほどつらいが、あきらめなければならない気持ちのこと。
瀬島龍三さんが昭和天皇のことでいまの若い人にどうしても伝えておきたいことを話されている。
昭和18年5月下旬の北太平洋のアッツ島での戦闘のときのことです。
北太平洋のキスカ島とアッツ島という二つの島に陸軍の守備隊がでていまして、アッツ島のほうは
山崎大佐の指揮する信州松本の部隊でした。(約2,500名)そのアッツ島が五月下旬にアメリカの
優勢な兵力(約12,000名)の上陸を受けたが人数の差から勝負にならなくて、これ以上守備の任務を
まっとうすることは不可能になりました。しかし、このときのアッツ島部隊は非常によく戦いました。
アメリカの戦史に「突撃の壮烈さに唖然とし、戦慄して為す術がなかった」と記されたほどです。
それでもやはり多勢に無勢で五月二十九日の夜中に山崎部隊長から参謀総長あてに次のような電報が届きました。
「こういう風に戦闘をやりましたが、なすすべがなく明日全軍総攻撃を致します。
アッツ島守備の任務を果たし得なかったことをお詫びいたします。武官将兵の遺族に対しては、
特別のご配慮をおねがいします」そういう実に悲痛な電報は、
「この電報発電とともに、一切の無線機を破壊をいたします」と、結ばれていました。
当時、アッツ島と大本営は無線でつながれていたのですが、全軍総攻撃ののちに敵に無線機が
奪われてはならないと破壊し、アッツ島の部隊は玉砕したわけです。(日本軍の最初の玉砕)
この腫の電報の配布第一号は天皇です。第二号が参謀総長、第三号が陸軍大臣となっていまして、
宮中にも各上司の方に全部配布いたしました。そして、翌日九時に参謀総長杉山元師が、このことを天皇に
奏上しようということになりまして、私は夜通しで上奏文の起案をし、参謀総長のお供をして参内いたしました。
私どもスタッフは陛下のお部屋には入らず、近くの部屋で待機するわけです。
それで、杉山元師はアッツ島に関する奏上を終わらせて「瀬島、終わったから帰ろう」とこうおっしゃる。
帰りの車に一緒に乗り、坂下門を出たあたりで手帳と鉛筆を取り出して、
「きょうの御下問のお言葉はどういうお言葉がありましたか。どうお答えになりましたか。」
ということを聞いてそれをメモして役所へ帰ってから記録として整理するということになっていました。
それでその日も、「閣下・・」と車の中で何度もお声をかけたのですが。元師はこちらのほうを向いてくれません。
車の窓からずうっと右のほうばかりを見られておられるのです。つまり二重橋の方向ばっかり見ておられるわけです。
それでもお答えを伺うのが私の任務ですから重ねてお伺いしました。
そうしたら、杉山元師はようやくこちらのほうに顔を向けられて、
「瀬島、役所に帰ったら、すぐにアッツ島の部隊長に電報を打て」といきなりそう言われた。
それを聞いてアッツ島部隊は無線機を壊して突撃してしまったということがすぐ頭に浮かんで、
「閣下、電報を打ちましても、残念ながらもう通じません」とお答えした。
そうしたら元師は、「たしかに、そのとおりだ」とうなずかれ、
しかし、陛下は自分に対して、
「アッツ島部隊は、最後までよく戦った。そういう電報を、杉山、打て」とおっしゃった。
だから、瀬島、電報を打て」と言われた。
その瞬間、ほんとになあ、涙があふれて・・・。
母親は事切れた後でも自分の子供の名前を呼び続けるわな。
陛下はそういうお気持ちなんだなあと、
そう思ったら、もう涙が出て涙が出てね、手帳どころじゃなかったですよ。
それで役所へ帰ってから陛下のご沙汰のとおり、
「本日参内して奏上いたしたところ、天皇陛下におかせられては、
アッツ島部隊は最後までよく戦ったとのご沙汰があった。右謹んで伝達する」
という電報を起案してそれを暗号に組んで、暗号に組んでも、もう暗号書は焼いてないんですが、
船橋の無線台からアッツ島のある北太平洋に向けて、電報を送りました。
そのようにして電報を出すと普通なら三十分くらいででね。、「何々電、謹んで拝受す」という返事が来るんですが、
この日は一時間たっても二時間たっても返事はありませんでした。
もうひとつのキスカ島は撤退しようと言うことになり約5,000名の将兵がみごとに撤退しました。
あとで聞いたんだが、キスカ島の部隊を乗せた艦隊は夕方にアッツ島の近くを通ったそうです。
そのとき、岩淵君は甲板に出て、アッツ島のほうに向かって黙祷を捧げたんだね。
するとね、アッツ島の沖に紫色のきれいな瑞雲のようなものがかかり、
「天皇陛下万歳、天皇陛下万歳、天皇陛下万歳・・・」という声が聞こえたそうですよ。
未踏のクーラカンリ、2峰制覇! 東海大と西蔵大!
2001年3月から準備に入り5月4日の登頂成功までの記録です。
5月6日の静岡新聞朝刊のトップ記事でした。
私は逐一クーラカンリからのメールを受信させてもらっていたので興奮の中、お伝えしてきました。
東海大登山隊が出発した! 日々、クーラカンリからメールが届いてました!
チベット語で「天帝の峰、聖なる山」を意味するクーラカンリは主峰、中央峰、東峰の三つの峰を持ち、
ブータンヒマラヤの一角を成す。
最近まで外国人に知られることなく、秘境の山とされていた。初の三峰同時登頂を目指す。
日中の大学が合同登山隊を編成するのもヒマラヤ登山史上初という。
→クーラカンリ
登山隊長の同大学山岳部OB、出利葉義次さんは
「頂上に立つか立たないかは五分五分だが、全国各所から参加した三十四人全員が
無事に帰ることは約束する」と誓った。
出発前、出利葉さんがサハーに寄ってくれました。
衛星を利用しパソコンが山中で使えるらしく、現場の様子をメールしてくれるとの事。
過酷な状況の中でそれが叶うのかどうかは、わかりませんがワクワクしてしまいます!
どうか無事登頂できることをみんなでお祈りしましょう!
と、報告したのは4月1日のことでした。
その後、登山隊長から着いたメールの記録です。ヒマラヤからですよ!
4月2日 19:57
登山隊はBCに到着しました。
BCの高度は4,285m。2日の天気晴れ、風強く午前8時の気温−6度でした。
BCには中国国旗、日本国旗、西蔵大学旗、東海大学旗が掲揚され、合同登山らしいBC風景です。
ラサでの歓迎会を期に学生相互の交流も活発です。
2日午前中は隊荷整理、午後は休養でした。全隊員、高度障害による頭痛はあるものの皆元気に活動しています。
明日から登山活動開始。3日と4日は2班に分け、順応行動。
約5,300mのABC予定地を征服、同時に馬80頭、ポーター数十名による荷揚げも開始され
5日以降、全隊員がABC入りの予定です。簡単ですがBC設営の報告とします。
4月8日 20:30
現在までの登山活動状況を報告します。
4月5日先発隊が5,300mのABCに入り後発隊も6日ABCに入りました。
すでにABC入りしていたチベット大学隊と合流、登山活動の拠点をABCに移したところです。
6日午前6時の気温ー13度。この高度では比較的暖かい方です。
6日早朝、両大学で構成された偵察隊をC1予定地に派遣。
強風の中、予定地を発見。明日から本格的な荷揚げ作業が開始されます。
5、000mを越えたため、高度障害による頭痛、浮腫みなどでBCに下山させた隊員もいますが
医師の管理下にありますのでご安心ください。
また、体調不良の隊員はBC待機を命じ、回復するまで登山活動に参加させておりません。
以上、簡単ですが登山報告とします。
4月11日 17:02
5日から5,300mのABC入りを開始し、7日までにはほぼ登山隊員がABCに揃いました。
BC待機の隊員も10日までにABC入りしました。
それと平行し、8日からC1予定地偵察を行い、氷河5,900m地点をC1に決定。
10日、東海大学3名、チベット大学3名の隊員がC1入りしました。
特に不調の隊員もなく順調に登山活動を展開しております。
ABCでこれまでの最低温度はー16度。それでも比較的暖かい状況です。
チベットは冬の天候から春の天候に移り、時折降雪も見られるようになりました。
これから登山活動が本格化。
氷河のアイスフォールを突破、未踏の氷壁や雪稜をたどり、7,538mのクーラカンリ初登頂を目指します!
4月19日 13:11
5,900mにC1を設営しました。
C1はクーラカンリ主峰7,538m、中央峰7,418m、東峰7,318m、並びにカルジャン7,221mに囲まれた
氷河のモレーン(氷河に岩石や土砂が推積した所)の上にあります。
時折、標高差24m近いクーラカンリ北壁から落下する雪崩に怯え、ここは安全地帯と確信しながらも
テントから飛び出て、スローモーションのように落下する雪崩を間近に仰いでいます。
夜中はテントの下でビシッ、ビシッと氷河の氷が割れる音を聞きながら、
いつここにクレパスが開くのかと恐怖に怯えシェラフに包まれています。
本登山計画中最大の難所とされ、これまで登山隊を退けてきた標高500mのアイスフォール帯のルート工作を
12日から開始、仰ぐほどの氷壁、大きく開いたクレパスなどアルミ梯子などの資材を投入、
数々の困難を乗り越え18日C2予定地である標高6,400mのプラトー(雪の大地)に到達しました)
いよいよクーラカンリ未踏の雪稜に足を踏み入れます。
東海大学並びに中国西蔵大学は一致協力し初登頂目指し頑張っております。
4月22日 14:40
4/21現在、登山隊は標高5,900mのC1を拠点にルート工作を完了したアイスフォールを越え、
6,370mのC2まで毎日のように装備、食料などの荷揚げを行っています。
時折、セラック(氷塔)の崩壊に怯えながらも慎重に行動しております。
高山病により体調を崩しBC,ABCに下山していた隊員も本日C1に戻って来ました。
登山隊のすべてがC1に集合し、C3(最終キャンプ)建設に向け気運が盛り上がってます。
西蔵大学隊員も気持ちをひとつに、我々以上の荷を背負い苦しい荷揚げに耐えて頑張っています。
ここC1は氷河上なので風は強くありませんが明け方の気温はー20度位になります。
C2は稜線上なのでブリザード(地吹雪)が吹き荒れー30度位になるでしょう。
明後日からC2に隊員が入り、最後の氷壁にルートを開拓、C3(最終キャンプ)建設に向け執念を燃やしています。
21日、西蔵大学、益西副学長並びに登山隊顧問、洛桑達瓦客員教授がBCを訪問され、
中国新華社通信の多吉記者による取材がありましたが登山の重要局面がゆえ、BCに下山出来ない私に代わり、
永田総隊長にABCからBCへ下山いただきその対応をお願いしました。
日本側登山隊長以下11名の隊員すべてがこれまでに6,000m以上の高度の到達しており慎重かつ的確な
判断のもとでクーラカンリ中央峰、東峰初登頂、主峰稜線初縦走を成功させたいと思います。
日本の皆様からの応援、よろしくお願い致します。
4/21最高到達点 C2標高 6,370m
緯度 N28度14分578
経度 E90度38分138
4月29日 13:39
クーラカンリからの配信の報告が届きました。
配信にはインマルサット衛星電話M4を使用、パソコンは(株)富士通の強力を得てFMV-BIBLONE5/600R、
最も重要な電源は(株)本田技研工業の強力を得て、携帯発電器EV-INVERTER9iを5、400mでの高所使用に改良、
無理に持ち上げたC1の5,900mでも充分、使用に耐えてます。
このように関係企業の協力があって活動報告を皆さんに配信できていることに感謝しております。
5月4日 19:25 中央峰、東峰の登頂成功です!
東海大学ヒマラヤ遠征隊登山隊の川村隊員からのメール
今(5/4)、C1にいます。
5/2山中とC3(約7,100m)を出発し16時頃クーラカンリ中央峰(7,418m)の登頂しました。
山中とコンテを組み、山中に引っ張られ頂上まで行きました。
未踏峰では世界第2の高峰です。よく、登らせてくれたものです。
昨日(5/2)C1に無事帰ってきました。登頂時の喜びも大きかったのですが、今はくたくたです。
それから、東峰の初登頂も本日成功しました!
登頂者は出利葉、片岡、土屋、笹尾、妹尾、平出です。
主峰アタックを明日に予定しています。山野、蔵元、妹尾、平出。
5月8日 21:01
出利葉登山隊長より登頂成功の報告!
本日、5日間に及ぶ頂上アタック行動を終えC1(5,900m)に帰着しました。
すでに中国新華社電を通じ、日本でも報道されたとおり3日、中央峰(7,418m)に東海大隊員2名、西蔵大隊員3名、
初登頂に成功、4日、東峰(7,318m)に東海大6名、西蔵大3名が登頂成功。
また、5日主峰を目指して縦走アタック隊はホワイトアウトで断念、6日、中央峰を越えるも天候悪化のため断念。
これ以上、隊員を7,000m以上の高所に留まらせる危険を顧みず、主峰を目指すのは登山隊長として忍びず、
無念ではありましたが、撤退を命じた次第です。
結果として6日中央峰に東海大3名が立ったため、双方17名という7,000mを越える未踏峰としては比類ない
大量登山者を出すことができました。
また、中央峰は現在、登山許可が出ている未踏峰としては世界2位の標高であり私達東海大としても、充分納得のいくものでした。
高峰を有する中国に敬意を払い、西蔵大隊員を先に登頂させる配慮をしたことで西蔵大学との友好関係が継続することを願うものです。
登頂までの内容を簡単にまとめてみました。
4/29以降C2(6,370m)からのクーラカンリ北壁側稜の氷雪壁を登挙するため、時には50度を超す斜面にアイゼンを
打ち込み、足元約1,500mの高度感に耐えながらルート工作、並びに荷揚げを行いました。
5/2中央峰と東峰のコル(鞍部)7,100m付近にC3を建設、いよいよアタック体制は整いました。
不安定な斜面に建設されたC3(最終キャンプ)に入った一次アタック隊員は眠れぬ夜を過ごし、3日無風快晴のもと、
中央峰にアタックを開始、急峻な雪稜を乗り越え先行の西蔵大隊員を追うようにして、初登頂に成功したものです。
同日、入れ替わりでC3入りした東峰アタック隊員は翌4日、強風をついてアタック開始し、
急斜面から稜線の雪稜に出て西蔵大隊員に続いて登頂に成功したものです。
なお、主峰までの初縦走は成りませんでしたが6日、中央峰の登頂にも成功したものです。
お帰りなさい、出利葉さん!
5月26日、顔だけ真っ黒に雪焼けした出利葉さんがサハーに寄ってくれました。
本当にお疲れさまでした。全員が無事下山できてよかったですね。
私と同年の彼は「もう、しんどい・・」と言っておりました。若い人でも大変なことなんだから!
しばし、ワクワクさせてくれて、ありがとうございました!
全然関係ないけど、大好きな植村直己の写真!
オススメリンク集
日本フォスタープラン協会 http://www.plan-japan.org
途上国の子供たちの焦点をあてた地域開発援助を行っている国際援助団体
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子供たちと手紙での交流はとても心温まるものです。
渓に棲む http://www2.wbs.ne.jp/~yagidai/
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とても子供の書いた文とは思えません。
オスカー・ワイルド http://www.geocities.co.jp/Bookend/5342/index.html
100年前のイギリスの人気劇作家 映画もおすすめ!
青山圭秀 http://www.lightfield.co.jp/aoyama/
サティア・サイババと何回も会い、彼の真実を本で紹介している。
サイババの信者は何をしているのかと言うと、世界規模で奉仕活動をしている団体です。
ハンセン氏病 http://herz.pobox.ne.jp/kamui/kakuri
世間の人々の無知のため、どれほどの人格を奪われて生きてきたか、この事実を人として知るべきです!
